ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 16

2004年、RCサクセション「イエスタデイをうたって」

ぼくが手がけた初の翻訳小説(短編集)であるテリー・サザーンの『レッド・ダート・マリファナ』。校正作業は年明けから大詰めに入った。小説ということもあり編集者から容赦なくはいる赤字(チェック)。直しては書き、直しては書き。全体のページ数の調整や、ぼくの進行の遅れ、また作品によっては内容のわかりにくさ(時事的な要素が強すぎる)もあることを考慮して、オリジナルの短編集から数本が省かれることにもなり、とにもかくにも、ようやく本は完成に近づいていた。

装画は友人キングジョーが手がけることに。その表紙イラストは、彼が見つけてきたあるレコードのジャケットが元ネタになっているのだが、原作の内容を再現したわけでもないのに、「これしかない!」と思えるものになっていた。

2001年に構成を担当した永井宏さんと中川五郎さんの対談集『友人のような音楽』では、ぼくのクレジットは本の奥付を見なければわからなかったが、今回は表紙に名前が出る。実家にそのことを連絡したら、父親がよろこんで「おまえの母校(小中高)に寄贈するから3冊送れ」と言ってきた。春に本が完成したとき約束通り送ったけど、はたして父はどうしただろう? だって、いくら息子が訳した本でも、学校の図書館に「マリファナ」はまずかろうて。

ともあれ、大学を7年かけて出て、あれほどふらふらした生活を送っていた次男が、ひとさまに認められるかたちでなんとか本を出した、という事実を提示できたことは、自分でもホッとする出来事のひとつだった。

この年の春、SAKEROCKは4人編成となって初のミニ・アルバム『慰安旅行』をcompare notesというレーベルからリリースした。タイトル曲の「慰安旅行」は、もともと彼らがSAKEROCKを結成して、はじめてレコーディングした曲で(そのヴァージョンはベスト・アルバム『SAKEROCKの季節』で聴くことができる)、しばらくライヴのレパートリーから消えていたのだが、03年の後半くらいからアレンジをすこし変えて演奏されるようになり、人気曲になりつつあった。

このアルバムのオビのコピー、というよりオビの文章を執筆したのがeastern youthの吉野寿さん。そのeastern youthの主宰するシリーズ・イベント「極東最前線」(2月17日、渋谷クラブクアトロ)にSAKEROCKは抜擢された。先行発売された『慰安旅行』が、この日の物販でめちゃめちゃ売れた。そのあたりから歯車がどんどん前向きに回り出す。『慰安旅行』が正式リリースされたのとおなじころには、フィッシュマンズのトリビュート・アルバム『SWEET DREAMS for fishmans』に「いかれたBaby」でSAKEROCKは参加した。あの名曲をやったわけだから、これも大抜擢だった。ちなみに、その「いかれたBaby」に続いて収録されていた「MAGIC LOVE」のカヴァーをしていたのが、名古屋のGUIRO。このときも「へえ? グイロ? ギロ? どっち?」と思いながら聴いていた。GUIROとぼくとの交流が始まるのは数年後の話。ぼくの長いつきあいは、バンド名に対する「?」から始まることが多いのかもしれない。

『慰安旅行』の発売記念インストア・ライヴが行われたのは、吉祥寺のタワーレコード。いまの場所じゃなく、東急百貨店の近くにあったころの話。余談だけど、のちにceroの「good life」という曲(7インチ 「武蔵野クルーズエキゾチカ」のB面)で歌われる「タワーレコードのベンチ」は、この場所のタワーレコードのビルの前にあったベンチだ。

あの日のインストア、お客さんは20人くらいだったかな。2階のフロアの什器をどかして演奏スペースが用意された。要するに、ただの床の上。このころ、新曲として「選手」などが、もう演奏されていた。

この年、 SAKEROCKはフジロックフェスティバルの「ROOKIE A GO-GO」に初出演を果たしている。ぼくがはじめてフジロックに行ったのも、この年。だけどなぜか「ROOKIE A GO-GO」は見ていない。

その理由は、この年の夏に来日していたNRBQのツアーを手伝っていたからで、フジロックに行ったのも、彼らがオレンジコートに出演することになったからだった。しかもスケジュールの関係上、おなじマイクロバスでの日帰り。

そういえば、このとき本番前にオレンジコートの袖でそわそわしていたら、「あの、ジョナサン・リッチマンの『リズム&ペンシル』の人ですよね。読んでます」と同年輩くらいの男性に話しかけられた。すごくうれしかったけど、とにかく気が急いていたので、ちゃんと話できなかったことを覚えている。ぼくの記憶違いかもしれないけど、その人、たしか「ぼく、テニスコーツってバンドやってるんです」と言っていた。ということは植野隆司さんのはずなんだけど、なぜ彼はあそこにいたんだろう? いまもそのことを確かめられずにいる(あのとき自分がとった態度が無礼だった気もして)。

この夏のNRBQのツアーといえば、忘れちゃいけない大事なことがある。ドラマーのトム・アルドリーノとは、おたがいに手紙やミックステープの交換をする仲になっていたのだが、彼があるとき送ってきたテープに「Tom Ardolino」とクレジットされたインスト曲があった。「これ、トムのソロなの? いつ録音したの?」と電話で聞いたら、「えへへ、16歳か17歳のときかな。家の地下室で録ったんだよ」と教えてくれた。さらに、そういう音源が山ほどあり、18歳のころに3本のオープンリールにそれぞれアルバムとしてまとめたというではないか。

その音源をトムから直接もらったのか、この時期の日本公演を主催していた中島さん経由でもらったのか記憶が定かじゃないけど、49曲入りのCD-Rをぼくは手に入れた。2003年だったかな。中島さんからは「『ブレイン・ロック』というタイトルで、すさまじい内容」いう説明を聞いていたが、じっさいは『Unknown Brain』というタイトルで、「Brain Rock」は49曲のなかの1曲のタイトルだった。でも、まさに聴いた衝撃は、ブレイン・ロック! 地下室でトムが宅録した夢と音楽への愛と狂気に満ちたガレージ・ラウンジ・ミュージックだった。

この音源をなんとか正式に発売できないかと思い、いろんなひとに相談しているうちに金野篤さんが興味を持ってくれた。「直枝(政広)さんが『出そう!』と言ってくれたのでウチ(当時、金野さんは直枝さんが主宰していたBumblebee Recordsという自主レーベルのスタッフでもあった)から出しましょう! 紙ジャケで、来日記念盤で」。ちょうど7月にNRBQの来日が決まった時期だった。

49曲で80分弱の音源は、音質も音圧もばらばらだったのでマスタリングをしようということになり、当時は布田駅にあったピース・ミュージックに出向いた。その日が、ぼくとエンジニアの中村宗一郎さんとの初対面。ゆらゆら帝国のすごい音像を手がけている人と知っていたので緊張したが、あまりの人当たりのよさ(そして仕事の判断の速さ)に感服した。

ジャケットの表1は、オープンリールの箱に描かれていたトムのイラストをそのまま活かし、裏ジャケやオビ、ライナーノーツはツマにデザインしてもらった。オビの邦題はもちろん『ブレイン・ロック』で、ぼくの手描き文字をもとに。オビ裏には、4人からコメントをもらった。直枝政広、安田謙一、星野源、森田文哉。なにからなにまで自分の思うようにやった。

来日ツアーの物販でも売るし、これはかなりいけるぞと思ったが、現実はそんなに甘くなかった。トムには物販用の特典に色紙をいっぱい描いてもらったので、いまでも持っている人もいるかもしれない。渋谷タワーレコードの5Fにも、デカデカと看板を出してもらった。残念ながら松永耕一さん(COMPUMAさん)は辞められた直後だったのだが、名物だった「松永コーナー」の余韻もあって、けっこうな数が売れたと聞く。

この年の9月には、ぼくのたいせつな人(従姉)が亡くなった。しかも、ぼくの母とツマの誕生日(ぐうぜんにもおなじ日)に。母の姉の娘さんで、明け方まで起きていて、自分の部屋で。死因は心筋梗塞。突然の痛みのなか、部屋から出ようとして倒れた形跡があったと聞いた。

もともと大阪生まれの大阪育ちだった彼女は、ぼくよりひとまわりほど年上。生来の読書家で、部屋はものすごい量の本(漫画も)で埋め尽くされていた。彼女から教わったことが多い、というほどに深く交流していたわけではなかったけど、ものを書いて生きていこうとしていたぼくのことをすごく気にかけてくれていた。彼女自身は体が弱く、お母さんの実家(つまりぼくの地元)のある熊本に、数年前に一家で転居していたのだが、最愛のお父さんが2年ほど前に亡くなり、しばらく混乱した日々を過ごしていたという。

1年くらい前のある日、彼女から小包が送られてきたことがあった。なかには冬目景の漫画『イエスタデイをうたって』の1巻から3巻までが入っていた。「大好きな漫画だから、良ちゃん(親戚筋では唯一、彼女はぼくをそう呼んだ)に読んでほしくて」と、簡潔なメッセージが添えてあった。訃報を聞いてすぐに熊本に飛んだぼくは、紀伊国屋書店に行って『イエスタデイをうたって』の4巻までをまとめ買いした。葬儀が終わり、棺が閉じられるとき、お花の代わりにぼくはそれを入れた。あとで叔母に彼女の部屋を見せてもらったとき、「このドアのところに倒れとったのよ」という説明を聞きながら、ぼくの目をとらえたのは机の上だった。すぐに目に入る場所に冬目景さんからの直筆の手紙と色紙が飾られていた。

「あの子が生きられんかった人生を生きてね」と叔母さんに泣きながら言われた。その答えになっている人生なのかはわからないままだが、『イエスタデイをうたって』は完結までぼくは読み続けた。最終巻が出たのは、これから11年後の2015年。奥付の日付が9月18日で、彼女の命日に近いのは不思議な因縁のように感じた。

そういえば、彼女の死について、のちに小西康陽さんたちが刊行されていたzine(前園直樹グループの雑誌『うたとことば。』)に書いたことがある。「黒い花びら」というタイトル。ハイファイ・レコード・ストアで働くようになってしばらくして、ぼくは小西さんと会話を少しずつ交わすようになっていた。恵比寿のカフェ「tenement」で小西さんが定期的にはじめたイベントが、静かな曲やシンガー・ソングライターを中心にかけていて、すごくいいから行こうと『リズム&ペンシル』の社長(会社としての実態はまるでなかったが、某メディアに就職した彼は、当時「社長」を自称していた)に誘われた。はじめてtenementに行ったのも、この年だった気がする。そのとき、tenementの店主、猪野秀史さんにもごあいさつした。「いつかうちでもDJやってくださいよ」と言われ、そのときは社交辞令と受け止めたが、翌年からぼくもここでイベントをはじめることになる。

『慰安旅行』のリリースがcompare notesとのワンショットだったSAKEROCKは、レーベルを決めないまま次作のレコーディング(※修正:「穴を掘る / 2、3人」のレコーディングではなかったか、というご指摘いただきました)をおこなっていた。これもどこかで何回か書かれた話だと思うが、大阪でのレコーディングに向かう夜の高速で、星野くんと伊藤大地くんが乗った車が自損事故を起こした。彼らが無傷だったのが信じられないくらいの事故だったと聞く。しかし、奇跡的にも大地くんの車が廃車になっただけで、レコーディングはそのまま行われた。

そのアルバムのキーポイントになるだろう2曲が、このころからライヴでもハイライトとして演奏されるようになっていた。「イケニエの人」(大人計画の同名の舞台への提供曲だった)、そして「穴を掘る」。「イケニエの人」は、年が変わるころにはタイトルがあらたまり、「生活」という曲になる。

「穴を掘る」は、もともと星野くんが20歳ごろに作っていた曲で、彼が児玉奈央さん(『YUTA』にも参加していた女性シンガー・ソングライター)とやっていたデュオ、Polypのレパートリーとして知っていた。2003年ごろまでしか活動していないPolyp(ポリプ)のライヴ、ぼくは見たことがないけど、ぼくのツマは一度だけ見ている。また、Polypヴァージョンの「穴を掘る」はスタジオ録音もされていて、2003年に出たオムニバス・アルバム『The Many Moods of Smiley Smile』に収録されている。その曲が好きで、SAKEROCKのレパートリーにもなればいいのにと思っていたから、とてもうれしかった。よりテンポアップしたスカ風味でインスト・ヴァージョンになった「穴を掘る」も「生活」も、彼らのライヴに力強いグルーヴとペーソスの両方をもたらすものだった。

年も押し迫ったころ、「カクバリズムってレーベルから声をかけてもらってるんですよ」という話を聞いた。

「YOUR SONG IS GOODっていバンドがいいんですよ」と、ハイファイのスタッフから聞いたのも、この年の夏だった。「カクバリズムってレーベルから出てるんです」という。「カクバリズム? なに、その名前?」と、ぼくは聞き返した。やはり、ぼくの長いつきあいは「?」からはじまるらしい。その後、15年来のつきあいとなるカクバリズムとの出会い(まだ一方的なものだとはいえ)は、やっぱりその「?」だった。

2004年の1曲もSAKEROCKと言いたいところだけど、やはり大好きだった従姉を思って、「イエスタデイをうたって」にした。初期のRCサクセションの曲。心に刺さりっぱなしの毒の棘みたいな曲だ。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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