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生きる力はどこで学ぶ?

「コミュニティはこうすればうまくいく」みたいなツイートを見て、「私は別にその知見、欲しくないな」と思う日々。なぜだろうか。

たぶん、どうすればうまくいくかは日々からだを通して理解していて、例えば別のコミュニティで問題があったら「ここがまずいな?」みたいなことを見つける力は自然とついていると思う。

だけど、私が #コルクラボ で感じている、全方位から包まれているような実感は、全然別物なのだ。うまく言えるかなーと自分を疑いながら、ツイッターを開いて書き始めた。

書き始めたら、まるっと言えた。「生きる力」というひとこと。

稼ぐ力ではなくてね。生きる力。これって、どこでも教えてくれないと思うんだ。

例えば、頼る力

私は頼る力が全然なくて、寂しい夜に誰かに連絡することもできなかった。そういう友だちが自分に必要だということも知らなかったし、どうやったら作れるのかも、関係性を深められるかも知らなかった。

だから、「寂しい」というキーワードで本を探してポチって読んで涙を流したりしてしまう。

何かに困ったときに、誰かが話を親身になって聞いてくれるだけで救われるなんて知らなかったし、困っていることを誰かに話すと助けてくれる人が見つかることも、誰か一人にすべてを期待しない方がいいということも(だからってがっかりしなくたっていいということも)、助けることは助けられることにもつながるんだということも、なにもかも知らなかった。

でもこれはすごく言葉にしづらくて、言葉にしたとたん「そうじゃない場合もあるよね」みたいになってしまう。微妙なバランスで、私の体の中に、確固たる概念としてある。でも、少し前まではそんなものは持っていなかった。

言葉としては、知っていたんだと思う。だけど実感したことがなかったんだと思う。これまで生きてきて、学んでこなかった。

優しい社会の縮図

私がコルクラボに感じているのは、社会の縮図みたいなこと。それも、すごく優しい社会。助け合う社会ね。

どうしてコルクラボはこんなに優しくなったんだろう。

いろんな人がいて、少しずつ毒を消し合って。ときにわざわざ毒を出すみたいなこともして。

すごく顕著なのは子どものこと。子どもを巻き込むことで、予定通りにいかないし、人を頼らざるを得ないし、人をつなげることにもなるし、ほほえみや妥協が生まれる。

「迷惑をかけても、嫌われない」って思えることが、どれだけ子育てするうえで安心できることか。少なくとも、日本の公共施設(例えば電車の中)には皆無だ。

それから、子どもは生命そのものに近いから(大人になると壁みたいなものがたくさんあって、いのちから遠くなっていく)、接する人の素直な姿が現れてしまうと思う。「そもそも」みたいなことも考えざるを得なくなる。

コルクラボみたいなことが、世の中に広まればいいのに、と思う。少しずつでも、そうなるといいな。

自分の膿みも出せる

そもそもなぜそんなに生きづらかったのか。誰かに頼る方法も、人の温かさも知らなかったのか。

それはたぶん、私自身がオープンでなかったからなんだろう。心を開いていなかった。心を開く方法を知らないし。そもそも自分がどんなふうに心を閉じているかも知らない。扉はなんとなく見えているけど、ドアノブがありませんけど? みたいなね。

心を開いていない、みたいなブログを1年前に書いたから、少し開きはじめているつもりだったけど、まだまだ厚い扉だった。

だけどちょっともしかしたら、あそこに最後のドアノブがあるかも、というところまできた。あそこにきっと、何かあるのだ。汚くて見ないようにしていたもの。本当に最後かは、開けてみないとわからないけどね。

今日はここまで。そもそも、うまく言えないことはわかっていたけど、だらだらと書いてみたよ。

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