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「できるだけ子どもに寄り添う」という決意 #勝手にコルクラボ

懐かしい。#勝手にコルクラボ 。詳しくはこちら↓

コルクラボの掲示板で出されたお題に対して、私が答えた内容を書いていく。

Q.人生の分岐点で固めた「決意」を教えて

これまで「決断」という観点ではよく考えていたけど、「決意」って言葉で思考を深めたことはなかった。

決意ってなんだ? 決断と違うの? 

ググってみると、「決意は心の中で思うこと。決断は行動を伴う」と書かれていた。

私は「決断」だと思っていたので
(1)ライターを目指したこと
(2)離婚を決めたこと
で書こうと思っていたけど、違うことを書く。

決意は
(1)子どもにできるだけ寄り添う
ということかもしれない。もちろん、不登校がきっかけになっている。

私は今では「子どもを甘やかしている」的なことを言われることもあるけど、そもそも放任気味で甘やかさずに育てるつもりだった。それで子どもは育つと思っていたからね。幼稚園をいくら嫌がっても、そんなに深刻にとらえることはなく、「仕事するためには行ってもらうしかない」と登園させていた。罪悪感もなかった。

長男が小3でいよいよ不登校になり、だんだん気持ちが変化してきた。

「子どもに寄り添う方が、子どもがずっと楽しそうに生き生きと育つ」という体験をしてから、私はこのやり方しかできないなと思うようになった。少なくとも今の2人の子どもは、タイプ的にそうするほうがいいと認識している。

それは少しずつで、まずは「ゲームの時間を縛らない」「ルールで縛らない」というところから、「できるだけ話を聞く」とか、「話したいことを話してもらう」とか、「やりたいことをやらせる」みたいなこと。まだできていないこともたくさんある(ゲーミングPCが欲しいと言われているけど買っていいものか悩み中)。

暴力をふるい、暴言を吐いていた子どもたちは少しずつ落ち着いてきて、優しくなって、いろいろ話してくれるようになってきた。(もちろん反抗することもある)

あえて言葉にするのであれば、これは私が「長期的な視点でものごとを見る」とか「生き物(人間)の本質を知る」とか「自分の意志だけで上手くいかないものを受け入れる」とか、そういう本当に大切なものを身に着ける試練(修行?)なんだと思っている。修行的なものは結構好きなんだよね。

今は仕事の時間を削って、結構子供たちのために時間を作っている。ただ、今子どもの手がかからなくなって、たくさんの時間を仕事に費やせるとしても、それはつまらないし寂しいと思う。つまり彼らのためでもあるけれど、自分のためにやっている。

言葉にはしていないけど、そういう決意をどこかで、じわじわとしてきたんだろうと思うな。

===== おわり =====

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