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私の本棚にあるあなたの本

 あなたにとっては軽い気まぐれのキスだったのかもしれないけれど、私にとってはそうじゃなかった。あの日からずっと私の心は止まったまま。
 いつか気持ちが冷めるだろうと思っていたのに、「今日も好きだった」って、毎日、負けたかのように思う。
 あの日、電車での帰り道、あなたがバッグから取り出した一冊の本が、今も私の本棚にある。私たちは同じ作家のファンで、あなたは発売したばかりの文庫本をちょうど読み終えたところだった。その本をそのまま、私に貸してくれたのだ。
 本をあなたに返すことだけが、私が手にしているたったひとつの口実。それを返したらきっと、もうあなたと会うことはないだろう。

「そういえば、借りてた本返さなくちゃね」
 ついに、送ってしまった。メッセージ。無理をして、余裕のあるふりをして、何でもない風を装って、送る。
 昼休みの少し前に送ったから、すぐに返事が来ると思った。それなのになかなか来ない。
 15分経ち、デスクにおいてあるスマホを見つめ、どうしてもう少しかわいい感じのメッセージにしなかったのかと後悔する。
 3時間経ち、女子トイレでスマホの画面を見つめる。何か腹が立つ文面だったんじゃないかと感じてくる。長いこと借りていてごめんねとか、そういう一言が必要だったんじゃないかと思う。
 深夜。ソファに座ってテレビを見ながら、リビングテーブルの上に充電しながら置いてあるスマホをずっと気にしている。まだ返信が来ない。もう考えるのはよそう。このまま彼とは会えないのかもしれない。

 ブー、ブー。
 0時を過ぎたころ、スマホが震えた。見ると、彼からだ。息が止まりそうになる。
 読むのが怖い。まずはテレビを消そう。深呼吸した。はやる気持ちを抑えられずメッセージを開く。
「あの本、あげるよ。君の本棚に似合いそうだから」
 なんということ。つまり、私の最後の切り札は、いとも簡単に玉砕した。思わずソファに倒れこんだ。クッションを抱え、もう一度スマホのメッセージを読んだ。
 ソファに横になったまま、本棚に立ててある本を見る。水色とピンクのグラデーションは、確かに女性の部屋に合う背表紙かもしれない。きっと彼は、私が彼に会いたい気持ちを隠すために、本を口実にしていると知っているのだろう。その上で、彼は私に会いたくないのだ。それはもう、仕方ない。
「ほんと? ありがとう」
 私は寝ころんだままメッセージを返した。「もう一度会えるといいなと思ったんだけど」そう言えたら、どれだけいいか。でも言えない。これでもう、終わり。
 いくら似合うといわれても、本を見るたびに彼を思い出してしまうだろう。本棚に置いておくのは辛すぎる。私は立ち上がり本棚から本を取り出して、リビングテーブルの上に置いた。次のごみの日に、一緒に出してしまおう。

 ブー、ブー。
 またスマホが震えた。画面を見ると、彼から。今度は、メッセージじゃなくて通話だった。ソファに座りなおして、スマホを取る。
「もしもし」
「あ、もしもし? 今電話して大丈夫?」
 ふつう、電話していいか聞いてからしてくるんじゃないだろうか。
「本はもういいんだけどさ、また会えないかなと思って」
 消えそうだった期待に、火がともる。思わず体が前のめりになってしまった。もしかしたら、もう少し、好きでいてもいいのかな。
 次の日曜日、待ち合わせのカフェの説明をする彼の声を聴きながら、本を手にする。表紙にそっとくちびるを付けて、目を閉じる。さらりとした感触。あの日に戻れるような。

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