見出し画像

楽園の耳

 外見だけをいうならば、彼はさながら蜘蛛だった。もちろん、そんなことはどうでもいい。なんだったら、ほんものの蜘蛛であってもかまわない。人間大のどでかい蜘蛛。上等ではないか。私はまるごと受け入れる。
 彼はピアノを弾く。本職のピアニストというわけではない。つまり、世間に名前が通っているわけでも、それを生業にしているわけでもない。彼はただ単にピアノを弾くのだ。それが彼のアルファでありオメガであり、つまりは、いうところのレーゾンデートルである。
 はじめてここを訪れて、扉をあけた彼を見たとき、私がたじろがなかったといえば嘘になるだろう。しかし、彼はべつだん気をわるくしたふうもなく、かと言って、ことさらその場を取り繕うわけでもなく、淡々と私を迎え入れた。その日のうちに、私は正式に彼と契約をかわした。つまり、私は彼のメイドとなった。
 私は彼のために食事を用意し、脱ぎすてられた着衣を洗い、こまめに部屋の掃除をする。そのあいだ、彼はピアノを弾いている。眠る時と、食べる時と、そのほか生存に必要ないくつかの行為をする時いがい、彼はピアノを弾いている。呼吸をするのと同じように。
 音は屋外には漏れない。だけど私の耳には届く。いうならばそれは甘美な拷問だった。はじめてこの部屋を訪れ、彼に迎え入れられて、差し出された椅子に腰かけ、彼が「ぼくは喋るのが得意じゃないので……」ともそもそ言ってピアノに向かい、その異様に長い(まさしく蜘蛛の脚のように)十本の指を鍵盤の上に這わせた刹那、たちまち私は彼の……精確にいえば彼の紡ぎ出す音の……トリコとなった。それ以来ずっとトリコである。だから私はじつのところはメイドではなく虜囚、というよりいっそ奴隷と名乗ってもいいくらいなのだけれども、しかしペイは貰っていることだし、体裁のうえからもやはりメイドで通しておこう。
 最初のころ、私は奔流に巻き込まれた木の葉のようにただ翻弄されるだけだったように思う。それから少し余裕ができて、音の流れと向き合って、聴く、というよりそれをどうにかカラダで受け止める、といった姿勢になっていったのだけれど、それでも耐えきれなくてよく吐いた。なんというか、体という器ががたがた震えて体液を揺さぶられる具合なのだが、しかしそれだとたんなる悪寒みたいだ。もちろんそんなことではない。そんなバカげた話ではないが、うまい言い回しが見当たらない。
 私は楽理なんてまるで知らぬし音感もない。そもそもジャンルを問わず音楽の愛好家ですらなくて、iPodとかいうのも持っていないし、たまたま入ったお店でかかってる曲を耳にして「あ。いいな」などと感じるていどで、それも次の曲がかかったらもう忘れてしまう。それなのに、か、それだからこそ、なのかは知らないが、彼の弾く曲は何から何まで、まさに音符ひとつひとつに籠った微細なニュアンスさえも、わかる。わかる気がする。幸せな錯覚なのかも知れないけれど、とりあえず、何であろうと、これまでにこんな錯覚をおぼえた記憶がないのは確かである。

ここから先は

1,788字

いくつかの短篇といくつかの詩。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?