市場の有効性

7月26日付日本経済新聞17面に「電力先物、取引量8倍」という記事。
市場の評価を何によって行うかというのに、取引量というのは確かに市場を機能させるのに重要ではあろう。しかしながら、これは実態を伴わない先物取引であり、その取引量が増すという時点ですでにバブルであると言えないこともない。その上、この取引量の増加は売買両建ての注文を出すマーケットメーカーの制度拡充によるという。つまり、市場というよりも、管理価格の仕組みが整ったので取引が増えたという、非常に非市場的なメカニズムが機能したのだと言える。

先日も書いた通り、市場というのは、価格調整を通じて生産数量に影響を及ぼすことで需給が調整されるというメカニズムで動いている。その観点で見ると、この記事からはさまざまな問題が見て取れる。まずは、取引量に焦点を当てているということ自体についてだ。価格メカニズムが機能した結果として取引量が増すというのならばともかく、最初から取引量を増すための政策を行って、取引量が増した、などという自画自賛的な記事にいったい何の意味があるのか。ついで先物取引について。電力先物は、供給力に余裕があれば、需要が増えることが具体的にわかっていれば供給を増やすことが可能となる。ただし、夏場の電力逼迫期の先物にその効果があるのかはわからない。その意味で、先物自体の商品設計がうまくできているのかが引っ掛かる。基本的にヘッジニーズを満たすためとあり、価格リスクのヘッジであれば、市場メカニズムをうまく活かした物だとは言えない。さらには、売買両方の注文を出すマーケットメーカーの存在だ。価格メカニズムで需給調整を行うのに、マーケットメーカーが売買両方の注文を出していたら価格メカニズムは機能し難い。それは、市場を機能させるためというよりも、取引量を増すための物だと理解せざるを得ない。これらの点から、この仕組みは市場メカニズムをうまく使った例であるとはいえそうもない。

金融市場というのは、カネでカネを売買する仕組みであり、その意味において、価格変化が供給量に影響して需給が調整されるというメカニズムは、価格変化が別のカネの供給量を変えてその相対価格が変化するだけという意味において、機能していない。カネの売買を市場による需給調整に付すという時点で価格調整によるメカニズムは機能し得ないのだ。株式市場等で機能しているではないか、と言われるかもしれないが、価格変化は売買数量を変えるだけで、なんら生産数量を変える物ではない。生産数量が変わらなければ、それはスミス的意味での市場メカニズムとは言い難い。資産ポートフォリオ調整の取引は生産的とは言えず、非生産的取引は、経済学的意味では取引には組み入れ難いからだ。

その意味で、貨幣市場を考慮に入れたケインズの経済学は、生産性を測るという意味では経済学とは言い難い。クルーグマンが国の競争力というものは存在しないと言ったのは、貨幣市場の均衡で所得と利子率が決まるというマクロ経済学の考えに、生産性の概念が入り込む余地がないからだと考えることができるのかもしれない。金利水準で決まる所得は生産性とは関わりがなく、財市場も均衡を前提としたら生産性の改善要素は反映されていないからだ。財市場の弾力性、すなわち需要増による価格上昇によって生産可能範囲が広がるという、貨幣価値で計測する経済学的な生産性向上メカニズムが考慮に入れられなければ、貨幣市場の均衡の上方移動というのは単にカネの垂れ流し、財市場のそれも財政垂れ流し、これもクルーグマンの論を取り上げれば、改革開放期の中国の経済成長は、単に生産要素の投入が増えただけという説明が、まさにケインズのマクロ経済学によってできる説明の限界であると言えそうだ。

こう言った意味で、金融市場がいかに発展しようとも、ケインズ的マクロ経済学をベースにする以上、生産性の向上を伴った経済成長、すなわち実質的な経済成長を望むことはできないということになる。それを理解した上で、電力先物の取引量が増えたということにいったい何の意味があるのか、ということを考えてみる必要があるのだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。