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【Lonely Wikipedia】ニクソンとベトナム戦争

前回に引き続き、今度はニクソン訪中を先に仕掛けたアメリカ側の意図をもう少し探ってみたい。

から、ニクソンの、アジア、中国に対する姿勢に関わる部分を拾ってゆく。

まず、ニクソンはカリフォルニア州オレンジ・カウンティ出身
1994年に財政破綻していましたね。ここを追うだけでも1本書けそうです。

両親は メソジストクエーカー、そして大学は当然デューク大学

海軍除隊後にペプシコ社の弁護士

1946年 下院議員に選出
下院非米活動委員会のメンバーとなり、東西冷戦でソ連との緊張激化の中で当時「赤狩り」旋風を巻き起こしていた共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーとともに、「反共の闘士」として彼の名が全米に知れ渡った。

ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

「反共の闘士」で名前を売っていたことが効いたようですね。後はクェーカーつながりのフーヴァーの後押しがあったか。

同年の10月5日から12月14日にかけて日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンインドネシアラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

このあたり、国務長官のダレスとの関係はどうだったのでしょう。

また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。アメリカは赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。当時の有力政治週刊誌はチャイナ・ロビー活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際に中華民国総統蔣介石から資金の援助があったという噂を書いている。
1954年にディエンビエンフーでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗を主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国に結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた。
インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則の無い若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた。

そりゃ怒って当然でしょう。まさに無原則という言葉がふさわしい。

1964年来日時

駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府(中華人民共和国)の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた。

これもまた無原則ですが、この時期からそんなことを言っていたというのは注目。
おそらくケネディ政権時に出た台湾の国光計画が関わるのでしょう。

ベトナム(インドシナ)戦争の終結
選挙公約

アイゼンハワーがフランスに代わって行った軍事援助に始まり、後任のケネディにより本格的な軍事介入が開始され、さらにその後任のジョンソンによって拡大・泥沼化されたベトナム戦争を終結させ「名誉ある撤退」を実現することをニクソンは大統領選に向けた公約とした。アメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。
1969年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東および中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。

中ソ対立と同期していたのですね。これは要注目

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、大統領グエン・バン・チューおよびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との和平交渉を再開した。

ここで状況の激変があるんですね。

ホー・チ・ミンは、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果を生んだ。
ホー・チ・ミンは中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。

これによって、ベトナム和平を中ソ分断に利用しようと考えたのでしょう。

しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。撤退するために戦線を逆に拡大するニクソン流のやり方は、最後のパリ和平協定が締結する直前まで続く。

紛争が東南アジア全体に広がったのは、ニクソンの罪が大きいですね。この辺り、第二次世界大戦の歴史観の整理のようなことも伴っていたのではないかと考えられます。ハルノートの直接的原因は、まさに南ベトナムにあたる南部仏印への進出でしたからね。だから多分沖縄返還にも関わってくることなのでしょう。それもまた後からしっかり見る必要がありそう。

その後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、パリでの北ベトナム政府との和平交渉(四者会談)を継続させた上でキッシンジャー補佐官が和平交渉とは別に極秘に北ベトナム担当者と交渉に入った。それは北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問した1972年の秋で、ようやく秘密交渉が進み締結寸前までいった1972年12月には逆に北爆が強化されて爆撃が交渉のカードとして使われるなど硬軟織り交ぜた交渉は、パリでの正式な交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、最後にはハノイに爆撃するなど「ニクソン・ドクトリン」の発表からも、3年半以上に亘って戦争を継続する結果となった。

えーと、中国への訪問は72年2月で、秋に北ベトナムとの交渉に入り、12月に空爆強化、ということでしょうか。この辺り、キッシンジャーの動きを再確認する必要があります。

極秘裏で行われたキッシンジャーの訪問後に、中国国内で文革推進の旗頭であった林彪の失脚・亡命・墜落死という事態を生じ、毛沢東の高齢化、中国共産党内での周恩来の実権掌握が明らかになり、やがて鄧小平の復活と近代化路線が前面に現れてくることで、この米中接近は中国にとっても大きなターニングポイントとなった。

キッシンジャーの訪問が71年7月で、9月に林彪が死に、そのあと10月に再訪という流れなのかな?

この辺り

に依拠しているということでしょうか。自伝なので、信頼性は要チェックです。

キッシンジャーは65年からベトナム戦争に関わっていたんですね。やはりこちらが主導していたと考えるべきでしょう。

ニクソンの「秘密の方策」というのは、沖縄返還に絡めて台湾より南の第二次世界大戦中の話をアメリカ側に都合よく整理して中国に売りつけるということで、その道具としてベトナム戦争からの撤退というのがあったのではないでしょうか。


脇道に逸れすぎなので、ここではサラッといきます。Wikipedia調査の問題は、すぐに脇道に逸れていってしまって、本題が何だったかを忘れてしまうことです。

アメリカ軍の完全撤退
そして4日後の1月27日に、ロジャーズ国務長官と南ベトナム外相チャン・バン・ラム、北ベトナム外相グエン・ズイ・チンと南ベトナム共和国臨時革命政府外相グエン・チ・ビンの4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャーとレ・ドク・トにノーベル平和賞が授与された(レ・ドク・トは受賞を辞退した)。

うーん、これだけではやはりよくわからない。とりあえずはサラッと。

中華人民共和国訪問
1949年に中華人民共和国が建国された後、朝鮮戦争における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあったが、1971年7月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、アメリカ軍の南ベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国との国交を成立させることで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めることの一石二鳥を狙い、キッシンジャー大統領補佐官を極秘にパキスタンイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。
この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相の周恩来と会談して、正式に中華人民共和国訪問の招待を受けたことからニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、副大統領時代に印象付けた猛烈な反共主義者で親華派親台派)のイメージをニクソンに抱いていた世界を驚愕させた。「ニクソンが中国に行く(英語版)」という政治用語も生まれた。
また1971年12月に起きた第三次印パ戦争ではニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。
そして翌年1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京空港に到着し、周恩来首相が出迎え握手を交わし、中国共産党主席毛沢東と中南海で会談し、ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。
訪中から3か月後にニクソンが行った北ベトナムへの北爆再開と港湾封鎖も中華人民共和国の了解を得たともされている。
なおアメリカ合衆国と中華人民共和国の間の国交樹立は、カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。ニクソン訪中時に国交樹立まで至らなかったのは長年中華人民共和国との対立を続けている中華民国との関係であった。1979年に米中間の正式な国交樹立時における中華人民共和国からの強硬な申し入れを受けて、中華民国とは国交断絶せざるを得なくなり米台相互防衛条約は失効された。しかし両国内での強い反発があり、議会で国内法として「台湾関係法」が成立して、アメリカ合衆国は中華人民共和国との正式な国交樹立以後も、国交断絶した中華民国への経済的、軍事的、外交的な支援を含む密接な関係を続けている。

この辺りは前回の内容とほぼ重なるところ。

ニクソンは読めば読むほど謎、というか原則が普通の人とずれすぎていて、疲れ切ってしまう。

ベトナム戦争との連動性はもっとしっかり見ないといけないが、とは言っても、ニクソンはとても簡単には攻略できそうもない。とりあえずは中国側の視点からでまとめるべきだろう。

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