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【Lonely Wikipedia】カム反乱

カム反乱(カムはんらん)は、1954年頃から始まった中国に対する東チベットのカム地方を中心とする反乱のことである。チベット動乱のきっかけとなった。その後チベットでは1974年頃まで戦闘が続き、「20年戦争」とも呼ばれる。

とされるが、これはどうも多少誇張されていそう。というよりも、複雑な事情がここで調整されているというべきか。

1955年12月,四川省凉山地区共黨入鄉即将展开时,当地爆发了部分彝族和藏族人抗拒的大规模武装骚乱,四川省甘孜藏族自治州(属于金沙江以东的東部康區)内大部分地区卷入骚乱,同中国人民解放军展開激戰。

まず、1955年に共産党が四川省の涼山地区、つまり涼山イ族自治州にあたると思われるが、そこに進出しようとした時に暴動が発生したとされる、イ族はチベット族の先祖ともされるが、言葉もどちらかと言えばビルマ系に近く、そしておそらく西康省の管轄でもなかったところで(Wikipedia西康省では管轄となっているが、その地図を見ると、どうも入っていなさそう。)、宗教も仏教のみでもないので、チベットの権威が及ぶ範囲ではなかったと思われる。そして、その辺りは、前回少し出てきた国境付近での台湾の反共ゲリラ支援に対するビルマの国連提訴にも関わってきそうで、チベットの統治問題とは関わりがなかったと考えられる。

27日当选为全国人民代表大会常务委员会委员,12月25日当选为全国政协副主席。在此期间,十世班禅多次与毛泽东、刘少奇、周恩来等领导人会面。

1954年12月27日には全国人民代表大会常務委員に、12月25日には中国人民政治協商会議全国委員会副主席に選出されました。 この間、パンチェン・ラマ10世は、毛沢東、劉少奇、周恩来などの指導者と何度も会っている。

1955年,中央决定留张经武在北京。
同年3月9日,在第七次国务院全体会议上,张经武作了《关于西藏地方工作的报告》。
7月30日,毛泽东主席任命张经武为中华人民共和国主席办公厅主任,兼任驻西藏代表、西藏工委书记。
9月27日,张经武参加国家主席授衔授勋典礼,被授予中国人民解放军中将军衔,以及一级八一勋章、一级独立自由勋章、一级解放勋章。

チベットの指導者層と共産党との関係も悪くなさそう。張経武も駐西藏代表、西藏工作委員会書記兼任とされながらも、どうも北京に留まっていたようで、チベットの統治自体は、55年3月にチベットに戻ったと見られるパンチェン・ラマらが行ったように見受けられる。

1955年3月9日,国务院总理周恩来主持召开了第七次国务院全体会议,专门讨论西藏工作。会议通过了《国务院关于成立西藏自治区筹备委员会的决定》,决定由第十四世达赖喇嘛任西藏自治区筹备委员会主任委员,第十世班禅额尔德尼任第一副主任委员,张国华为第二副主任委员。此外,会议还通过了《国务院对西藏地方政府和班禅堪布会议厅委员会之间关于历史悬案问题的谈判达成的协议的批复》。3月12日,十世班禅结束了对内地的视察访问,离开北京返会西藏,参与西藏自治区的筹备。当天,毛泽东与汪锋、计晋美等到畅观楼与十世班禅交谈,毛泽东对十世班禅说:“每个民族都应有自己的民族领袖,西藏有达赖和班禅这样的领袖是很好的。”对此,十世班禅感到十分惊讶,毛泽东于是重复了一遍,十世班禅于是回答到:“我不是领袖,只有毛主席是各族人民的伟大领袖。”毛泽东再次回应说:“您就是领袖嘛!我看在西藏,不能只喊‘毛主席万岁!’、‘朱总司令万岁!’,还要喊‘达赖喇嘛万岁!’、‘班禅喇嘛万岁!’”。离开北京返回西藏途中,十世班禅开始学习汉语,三年后已掌握二到三千个汉字,可以阅读一般的汉文文件和书报。同时,十世班禅还学习了中国历史、中国共产党党史等。在佛学方面,在恩久经师的指导下,十世班禅仔细阅读了五部大论、慈氏五论和四续部。

その帰国前にパンチェン・ラマは毛沢東に会い、そこで指導者とされることに躊躇していたら、毛沢東から自分が指導者になるように、と強くハッパをかけられ、そして猛勉強をしたようだ。
この後、

从1955年下半年开始,中华人民共和国政府在内地推行社会主义改造和农业合作化运动,并在金沙江以东包括川、滇、甘、青的藏区开始实行土地改革,随即藏区发生了民變,且规模日益扩大,中共称此为“康巴叛乱”。
在对四川、青海等地藏区农牧业强行进行社会主义改革时,大量摧毁寺院,强迫僧人还俗,许多普通群众被打成“叛匪”,结果造成人民生活陷入困苦。

と出ているが、これは怪しい。まず、中国で大躍進政策が本格化したのは、すでに書いたとおり56年、それが人民日報ぐるみで過熱化したのが58年からであり、混乱が起こるとしたらそれ以降となる。
そしてチベットでは、

1956年4月22日,西藏自治区筹备委员会成立,十世班禅任筹委会第一副主任委员。

西藏自治区筹備委員ができたのが56年4月22日であり、ここではパンチェン・ラマが第一副主任となっているが、

1956年4月22日,西藏自治区筹备委员会成立大会在拉萨大礼堂举行。筹委会由51人组成,丹增嘉措出任主任委员,额尔德尼·确吉坚赞任第一副主任委员,张国华任第二副主任委员,阿沛·阿旺晋美任秘书长。

とあり、主任委員がダライ・ラマ14世であり、パンチェン・ラマよりも責任が重い立場にある。しかもどちらもラマ名ではなく、俗名で委員となっている。次いで第18軍の張国華が第二副主任員、そしてジクメが秘書長となっている。

なお、それに先立って

1955年,西康省被撤销,原西康省暨康区金沙江以东区域划归四川省。

西康省の一部が四川省に編入されたとするが、

を見てもチャムドの戦い以降の歴史が書かれておらず、そして

では熱河省と西康省の廃止としか書かれておらず、一方の人民日報では

https://cn.govopendata.com/renminribao/1955/7/31/2/#中华人民共和国第一届全国人民代表大会第二次会议关于撤销热河省西康省并修改中华人民共和国地方各级民代表大会和地方各级人民委员会组织

と、西康省全域が四川省になったとされている。半分に分けて、という話はどちらにもないわけで、その時点では所属が未定だった可能性もある。そしてそれがチベット自治政府と中央人民政府との間での摩擦の元となった可能性がありそう。むしろ、直轄の省を廃止して甘孜藏族自治州として自治を強めようとしたが、西側のチャムドが勝手に西藏自治区筹备委员会に参加し、結局残った部分を四川省に編入せざるを得なくなったということかもしれない。

そんな状態で55年12月の涼山での暴動となるわけだが、カムに行くのにもまともな道路がなくて大変な思いをしているのに、涼山となるとさらに大変で、暴動が起きるほどの軍隊を送ることができたとは思えない。涼山には、河伝いで行くとしたら、南からの方がアクセスが良く、涼山で騒ぎが起きたとしたら、それは南からきた可能性が高く、しかも、難民がチベット方面に逃げたとしたら尚更その可能性が高い。

そこで南の様子を見てみると、54年の3月から5月にかけてフランス軍がベトナム人民軍に惨敗を喫したディエンビエンフーの戦いがあった。

ディエンビエンフーはベトナムとラオスの国境付近で、直接雲南方面にはつながらないが、インドシナ内陸部の拠点としては重要なところであった。そこで敗れたフランス軍は1万人の捕虜を出したとされるが、ベトナム側ではその存在を隠して身代金の交渉材料にしたとも言われる。一方で、中国国民党軍、あるいはビルマ共産党が60年代になるまで中緬国境で活動しており、実際には捕虜ではなくそちら方面に逃げ出して合流して活動したということなのかもしれない。和平でベトナム側に身代金を支払ったとしたら、それは身代金というよりも、むしろゲリラ掃討を押し付けた賠償だったのではないか。それが後々までインドシナの混乱要因となり続けたのかもしれない。いずれにしても、台湾の国民党が雲南にまで入り込むというのは考えにくいので、おそらく共産党の過激派の部類だったと考えられるが、それが雲南からインドシナにかけてかなり活発に活動しており、それが中国側に流れ込んで涼山方面まで北上してきて、その混乱がチベット方面まで波及したのかもしれない。

一方で北の青海で何があったのだろうか。

1950年代初,中國大陸展開「土地改革運動」,但是當時並沒有在藏區大規模展開。直到1955年初,中共中央對於在少數民族地區的「農業社會主義改造」仍然持謹慎態度。1955年2月25日,中共中央向西藏以外的13個少數民族所在的省、自治區的黨委發出《關於在少數民族地區進行農業社會主義改造問題的指示》,批評在「少數民族地區『硬趕漢區』的急躁冒進的思想和作法」,提醒各地黨委說,由於這種做法,「甚至可能發生群眾性的騷亂」。

共産党の方が少数民族地区が漢族区に追いつき追い越せとばかりに焦っているのが騒乱を起こしかねない、と警告している。つまり、自治区にした方がかえって急速に土地改革を進めたということのようだ。

1955年7月31日,毛澤東召開省、市委和自治區黨委書記會議,做了《關於農業合作化問題》的報告,嚴厲批評時任中共中央農村工作部部長鄧子恢主張放緩發展合作化的觀點。

一方で、毛沢東は中京中央農村工作部がゆっくり進めようとするのを厳しく批判していた。
それを受けて各地方の委員会が競うかのように土地改革を始め、それを人民日報などが煽って大躍進を進めていったことはすでに別に見た。

中共對藏區的「民主改革」有明確的目標,即「摧毀封建經濟」,收繳民間武器,摧毀寺院,基層建政等。如在進行「牧業合作化」的時候,把比較富裕的牧民擁有的牲畜用贖買的方式放到公私合營牧場,贖買價格低得不合理;牲畜比較少的牧民擁有的牲畜聯合起來成立「合作社」。對於牧民來說,這相當於沒收他們的全部財產。牧民普遍不接受,有些部落反抗,有些部落逃跑,這就被說成「叛亂」,於是中共派軍隊鎮壓。在青海和甘南等地區鎮壓最為慘烈,死的人最多。

どうも、チベット文化圏の中でも、省の中に組み込まれた青海省でかなりおかしなことになったようだ。要するに、牧畜文化圏への共産主義の適用というのは、農耕圏とはまた別の難しさがあったであろうが、それを早急に協同組合化したため、家畜が財産そのものであった牧畜民にとっては受け入れ難いことになり、それが暴動へとつながっていったようだ。

この青海省であるが、1928年に設置されたとされ、その年は確かに蒋介石が武漢政府を破り、北京を陥落させて全国統一しているが、だからと言ってチベット・モンゴル人の地であった河西回廊南部を含めた範囲に青海省を設置するというのは、書類上はともかくとして、実際的にはありえなあいことであろう。そこで、当時青海を誰が支配していたか、というのを見てみると、馬家軍という名が出てくる。

ムスリムの馬一族率いる軍閥で、1949年まで甘粛、寧夏、青海地域を支配していたとされる。一貫して国民党側に立ち、共産党軍と戦っていたようで、しかしながら中華人民共和国建国直前に人民解放軍の攻撃を受けて台湾へ、さらにはサウジアラビアへと逃れたとされる。さらに複雑なのは、この地域のムスリムが、次々に新興の教えを生み出して、その度に分裂するということを繰り返していたということがある。その中で一番新しい教えに西道堂というものがあった。

财产及收入全部归道堂所有,实行统一管理,统一分配。信众的衣、食、住和婚、丧费用等全部由道堂统一支付。

それは、西道堂という私塾が財産を全て所有し、共同で管理、分配するという共産主義と非常に近い手法をとっていた。これは想像だが、青海で、その手法に似せた強引な手法を、ムスリム地域ではないチベット仏教徒に当てはめた、ということが問題を引き起こしたのかもしれない。

青海、四川等藏区实施「民主改革」后,1956年6月,時任青海省副省長的喜饒嘉措在第一屆全國人大第三次會議上發言,建議「在合作化高潮中要注意民族特點」;1957年7月,他再次對中共建言,希望「重視藏族地區特點,慎重進行社會改革」,並提出「試辦藏民牧業合作社更應『寧寬勿緊』」,「減免寺院和喇嘛的農牧業稅」等具體建議,但在席捲全國的「合作化」風潮中,他的建議沒有絲毫影響。

確かに青海でチベット人副省長が警告しているということは、かなり過激に改革が進んでいたようだ。しかしながら、共産党自体がわざわざ自治区に設定したところで特別に過激な改革を進めるとは考えにくく、むしろチベット自治の枠組みでそれがなされたと考えるべきではないだろうか。そうなると、馬一族が失脚した後、いったい誰が改革を主導したのだろうか。この地域は歴史的にグーシ・ハーンの支配下にあったということで、その末裔が主体となって合作化を進めたのではないかと考えられる。グーシ・ハーンはダライ・ラマと関係が深いということで、その権威がなんらかの形で影響していたのかもしれない。

なお、この副省長は、

1959年3月,拉萨事件全面爆发,随后达赖喇嘛及数万藏人流亡印度。
对此喜饶嘉措发表讲话,坚决地支持政府,反对“西藏独立”。

として、政府を支持してチベットの独立には反対している。

さて、本題のカムの方であるが、そちらの情報は探しても全然出てこない。そこで想像なのだが、青海の方を西藏自治区筹備委員長のダライ・ラマが関わったとすると、カムの方は第二副主任である張国華が関わっていたのではないか。つまり、チベット人自治区が三つに分かれたのは、三人の西藏自治区筹備委員の担当地区によってで、そして西康省が二つに分かれたのは、張国華が西であまりにひどいことをしたので、東側がそれには参加せずに四川省に加えてもらうよう頼み込んだのではないか。

チャムドの邦达昌三兄弟の長男邦达养璧は、共同事業のガシャ政府への寄付を拒否し、1958年2月初旬、チベット自治区準備委員会を1年間休職し、1959年2月、休暇を終えてラサに戻ろうとしていた時、突然ラサでの暴動を知り、1959年3月18日にインドに逃亡したという。その後帰国しているので、ダライ・ラマと行動を共にしたわけではなく、むしろラサで仕事をしている間に地元のチャムドでなんらかの混乱が起こり、それがカム反乱と呼ばれるものと関わっているのではないかとも考えられる。

この辺り、ダライ・ラマの主張に従って情報を見ているとなかなか見えにくいのかもしれない。


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