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これを「枯れた」というのだろうか?

現在募集中のnote「創作大賞」に、エッセイ部門がある。
以前の私なら、きっと意気込んで書いていたと思うんだけど、今の私は、昔のような情熱があまり湧いてこなくて、いまだに躊躇している。
書こうと思えば、私の引き出しには過去の体験によるネタがたくさんあり、深掘りすれば数千字の長い記事に仕上げることができる体験ネタもいくつかある。
だけど、文字に落とし込むためのエネルギーが出てこないのよね。
これを世間の人は「枯れた」と表現するのかもしれないけど、なんとも複雑な心境なのである。

多分、私の予想だと、noteを書いている人たちの多くは、子育て世代だと思うのよね。実際に、私が過去によく読まれてきた記事も、受賞した作品も、家族について書いたものばかりだった。
そう、家族の物語だ。それも、子どものことを書いたもの。そういう記事を人は求めていて、広く読まれ、多くの共感と感動を生む。そもそも家族が絡む物語は、本質的にドラマチックだから、しっかり丁寧に書きこめば、エンタメとしてかなり映える。
だけど、最近の私は、以前のように自分の家族の物語をあまり書かなくなった。時々、自分の記録用として家族の物語を書く時はあるけど、以前ほどじっくり深く掘り下げて書かなくなった。

と同時に、他者が書いた家族の物語にも、あまり心が動かなくなった。何なんだろうね、これ。歳を取って感性が鈍くなっちゃったんだろうか。

子育てを卒業して、息子は一人の成人男性となり、私と夫が住む実家とは別所帯で暮らしている。彼は他の街に居を構え、私たち親とは別の道を進むようになり、経済的にも社会的にも完全に自立していった。
そうなると私自身、家族がどうこう、子どもがどうこう…という話に心惹かれなくなった。ある意味、卒業したのかもしれない。
家族の物語より、自分を語る物語に自然と目が向いていく。つまり、子離れ親離れが進むと、それまで家族や子どもに向かっていた自分の意識が、そこでぐるっととターンして、また再び「自分」に向かって回帰していくってことなのよね。
だからかな。家族の感動の物語より、個人の行動や思いについて語ったものが読みたくなる。私にはない視点や発想で書かれたもの、私の知らない世界について語ったもの、その人らしいユニークな目標に向かって日々奮闘していることを綴ったものなど、「家族」という属性から少し離れたところで書かれた文章に心が動く。

どちらにしても「文章を書く」とはエネルギーがかなり要ることで、「伝えたい」という熱量がないとできないことだ。どんな記事であれ、コツコツ書かれているみなさんは本当にすごいなぁ…と思う。
そして私自身は、今の私の日々のドラマは「起きる・動く・食う・寝る」の繰り返しで非常に単調。だから、ネタとしてそんな大したものでもなく、面白みに欠けて、ある意味すごく退屈なのだ。だから「書くほどでも無いよなあ…」と感じて、躊躇してしまうのかもしれない。

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