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犬と家出

ツイッターでは長すぎることをここで呟きます。最近、子ども時代の思い出を呟き始めています。
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子どもの頃、サリーという名の白いスピッツを飼っていた。
電車に乗ってしまって家に帰れなくなったらしい迷い犬で、父が駅で保護し、家に連れて帰ってきた子だ。
今のようにTwitterなどで「保護しました」とお知らせする方法はないので、その子の家がわからぬまま、そのまま我が家の子、私が初めて飼った犬となった。

妹ができたようで嬉しかった。小学生だった私は、何をするのもサリーと一緒だった。
ザリガニ採りをして、自分もサリーもどろんこになって、母に叱られ、ふたりでタライで水浴びをして泥を落としたこともあった。
ETの映画よりも先に、サリーを自転車の前カゴに入れて走ったりもしたものだ。

ある日私は家出をした。
理由はなんだったか忘れてしまったが、それに別段無理に思い出す必要もないのだろうし。
ただ、どこか遠くに行ってしまいたかった強い気持ちだけは覚えている。「もう家になんて帰ってくるもんか!」そんな勢いだった。そんな時もサリーが一緒。

リュックサックにお菓子を詰めて、水筒を持って、行くあてもないが、とにかく遠くへ行ってしまいたかったので、手に棒切れを持ち、よつ角、みつ角、T字路に行き当たるたびに棒を倒して棒が示すその方向に進んだ。

子どもの足なのでそんなに遠くへ行ってはいないが、棒任せで歩くその道のりは、ずいぶん遠くへ家出をした、冒険をした気分に浸らせてくれた。
サリーはせっせと(当然だが)黙って私についてきてくれた。
棒を倒して進む、棒を倒して進む。その都度、サリーは道の匂いを丹念に嗅いでいたっけ。

知らない神社(今なら神社名までわかるが)に辿り着き、境内の隅っこにふたりで座り、リュックからお菓子を出してふたりで食べた。水筒の水も、水筒についているコップで代わる代わるに飲んだ。

私は一生懸命、サリーに愚痴っていた。
サリーは私の横に座って、じっとそれを聞いている。時々尻尾をゆらゆらさせて、私の手をなめながら。
愚痴っているうちに泣いてしまった私をみて、サリーが立ち上がり「ワン」と鳴いてリードを引っ張った。

帰りは、棒ではなくサリーが道案内だ。
迷うことなく、サリーは家へと私を引っ張っていく。迷子だったサリーが迷うことなく…。

家にたどり着くと、私が家出していたなんて思ってもいない母が、「いつまでも拗ねてないで、早く手を洗ってご飯を食べなさい」そう言って、サリーの餌入れに餌を入れた。

サリーはなにもなかったかのように餌を食べ始める。私も運動靴を脱ぎ捨てて、「ちゃんと揃えなさい!」と叱られながら、家に入っていく。

子供の頃、犬は間違いなく私の相棒だった。私の心を守ってくれた。
サリーがいなかったら、私の心はひん曲がっていたかもしれない。

サリーがいたから、その家出も怖くなかった。
泣いたのは、不安だからでも、怖いからでもなく、あの頃言葉では表現できなかったがなんとなく感じていた「妹」「娘」という立場での理不尽さが悔しかったのだろうと思う。
そして、サリーがいたから帰ってこれた。

サリーと歩いた田んぼの畦道、見知らぬ砂利道。サリーが私を見上げ一緒に歩いた風景。
私の中で、心の中の思い出の風景としておさまっている。(BGMは井上陽水さんの「少年時代」だ(笑))

犬はいい。
私にとっては、間違いなくペットではなく家族だ。
当時、サリーは「私の妹」と思っていたが、「姉」だったのだろう。
相手を支配しようともせず、愛を押し付けようともせず、ただ見守ってくれる存在。

今も、そんな存在に囲まれて、助けられながら生活している。


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