制作日誌07 二〇一五年四月八日 藤田直哉

 編集の作業も、終盤に入ってきました。文字起こし段階で、60000文字あった鼎談を、言い回しや重複などを細かく削って減らす、泣きの入る作業を行ったり、他の編集担当に回して、削る部分に関して意見交換しながらぐるぐる回したりする作業も、だいたい終わり。原稿をお願いした方から、いい原稿が来ないかな~ 絶対に来るはずだ、と首を長くして待っています。編者としての作業は、「誰に何を頼み、どんな本の全体像にするか」ということを決めることから始まり、お願いしようと思う方々や内容について会議で様々な意見を出して、候補者の本や論文を読んだり作品を観に行ったりと、見えないところで大変な作業があったのでした。それも、ほぼ一段落し、今は、執筆者が原稿を送ってくださるのと、文字起こしされ、構成された原稿を、話し手の方々が直して送ってくれるのを待つばかり。序文とあとがきを考えたり、並びを考える作業はあるものの、編者としてのぼくの仕事は、ちょっと実作業的には楽になりました(レイアウトとデザインと印刷については、小林さんがこれから大変になるのではないかと思いますが……)。 なので、ここでは、本の中に入らなかった、こぼれ話などを少々。

 題して「イングレスと地域アートと『饗宴のあと』についてのノート」。

 1.「饗宴のあと アフター・ザ・シンポジウム」

 相馬千秋さんにご招待を受け、共同編集の長瀬さんと、東京都庭園美術館で行われていた「饗宴のあと アフター・ザ・シンポジウム」を体験しにいった。演出・テキストは、『前衛のゾンビたち』にも参加してくださっている、藤井光さん。打ち合わせなどの際にこの企画の話は聞いていたのだけれど、この文章においては、読者への便宜の問題で、その辺りのことは割愛する。作品の内容に絞って、話をしたい。 「饗宴のあと」は、スマートフォンとGPSを利用した、拡張現実体験をさせてくれるアート作品である。来場者は、自身のスマートフォンにアプリをインストールするか、住所などを書いて端末を貸し出してもらい、画面を触って音声などを操作しながら、スマホ片手にイヤホンの音声を聴きながら、建物のなかを回遊する。場所は、公式サイトによると「戦前は皇族の邸宅として、戦後は外務大臣公邸として、高度成長期はプリンスホテル迎賓館として使用されてきた東京都庭園美術館本館」であり、「幻想絶佳:アール・デコと古典主義」展が開催されているまさにその場所を用いて、「饗宴のあと」は上演される。

 上演、と書いたが、厳密には、何と呼ぶべきなのか、適切な日本語がない。なぜなら、拡張現実を用いた、新しい種類の体験だからである。「拡張現実」とはいえ、この場合は、上書きされているのは「音声」のみである。GPS機能は、使われるものの、東京都庭園美術館の中以外ではアプリが起動できないようにするためである(試しに家で起動したら、使えなかった)。カメラなどを用いた視覚的な拡張現実ではない。端的に言ってしまえば、音声ガイドの進化版、とも言える。通常の音声ガイドだと、展示物についての説明をするものだが、この音声ガイドは、建物や展示を用いて、それらの別種の見え方を提示してくる。このような性質を指し、ここでは「拡張現実」と呼ぶ。

 旧朝香宮邸を舞台に、ラジオドラマのようなものが、始まる。舞台は、おそらくは、未来。この美術館が廃墟になって、「観客」と呼ばれる存在が消えてしまった世界、らしい。天井に電球が並ぶ部屋に誘導され、音声では、天井から電球が落ち続けている旨のナレーションと、効果音が流れる。優雅で穏やかで気品のある空間に、やたらとガラスが割れる神経質な音が、響く。この時点で、「あ、なんか不気味な未来世界だ」と、SF好きのぼくは、結構喜んでいた。

 相馬千秋によるプロデューサーズ・ノートによると、この建物は、かつて皇族が住んでおり彼らすら戦地に赴いて戦死したり、吉田茂の邸宅になったり、安保条約について話し合われていたりという歴史のある場所であるらしい。しかし、現在は、美術館である。それらの歴史をリサーチした結果が、音声のドラマに組み込まれている。その中で、「芸術」や「観客」が消えてしまった未来からの視点と、過去の再現と、今、目の前でぼくが見ている現在とが、混濁するようにできている。過去の歴史は、単純に知らなかったので、音声によってそれらを知らされたあとに建物を見ると、感慨が異なってくる。(ぼくは、記憶や記録が、建物や空間に、本当に「蓄積される」という考え方は、とらないけれども) そして、このドラマは、美術・芸術・演劇を巡る、自己言及でもある。なかなか厄介に、意図的に抽象化・断片化された、ハイコンテクストな内容である。それは、藤井光が深田晃司のテクストを、意図的に抽象化したらしいのだが―それに不満の声がある向きもあるらしいけれど―ぼくは、歩きながら何かを体験するという形式においては、「断片化」は正解であると考える。その理由としては、移動を伴いながら、きちんとした「線」状になっているきっちりした物語を追いかけるのは、端的に、困難だからである(かつて、拡張現実を用いた物語体験作品の製作を試みた際に、それは思い知った)。 その複雑な主題のうち、ほんの一部だけをここに取り出す。「観客」の問題である。「観客」すなわち、今自分が見ているものを今まで見てきたものと比較して解釈する人が、もう存在しない未来が舞台になっている(そこに、過去の再演か残響か幽霊らしいものの声がする。観客―すなわちぼく自身も、ナレーターの背後霊みたいな存在として、言及される)。

 この仕掛けがうまく行っているのは、「饗宴のあと」に参加している人と、「アールデコ」展を観ている人が、二重化しているからだ。「饗宴のあと」は音声に限定していることで、視覚を自由にしている。すなわち、いないとされている「観客」であるぼくたちは、ある部屋などに誘導され、そこで、目と頭は自由のまま、音声に耳を澄ますのだが、音声は、せっかちな人にとっては結構長い。鳥の声や、ガラスを踏む(?)音、パーティか何かの会話、音響などなどが延々と続き、「物語」が展開しない時間が長い。この「時間」の拘束性が、有効に働いている(アプリの設計上、早回しはできないようになっている)。観客は、このヒマな時間に、強制的に「鑑賞」に誘われる。それと同時に、普段の自分が如何に「見ていない」かを反省させられるのだ。通常の音声ガイドの「解説」とは、全く逆のアプローチが行われている。答えを提示するのではなく、むしろ空白を、それを経験するだけの時間を、提示しているのだ。 ラスト、物語は、庭園の美しい庭が見えるベランダで終わる。ベランダには椅子があり、長い時間そこに坐っていたぼくらは、植物や雲などの美しさに、漠然と身を委ねている。松などが咲いている日本庭園の美しさを、無批判に観ている。そこに、音声ガイドは、批判を食らわせてくる。そのように観ているぼくを、突き放すように、物語が展開する。果たして「観客」はいるのか。「解釈」する人はいるのか。「観客」を信じることができるのか、という議論が展開される。そのとき、ぼくは、参加者であり、傍観者である。「観客はいるのだ!」と反論するためには、「解釈」しなければいけないのだが、さっきまで呆けたように植物を観ていたのだから、あまりうまく反論もできそうにない。

 このスマホの音声を聴いている人間は、それでも、「解釈」へと近づいている。その理由は、先ほども述べたように、時間的に拘束されて、ヒマなので、物を観て考える作業が、自動的に始まってしまうからである。そして、長時間ある場所に留まっていくぼくらの前を、「アールデコ」展を観ている人たちが、足早に通り過ぎて行く。建物の優美さや、アールデコの美しさを、さっと一撫でしているような観客たち(無論、批判はできない。ぼくだって、時と場合によっては、こういう観客である)。彼ら彼女らは、「観客」ではないのか。「解釈」はしていないのか。じゃあ、誰なのか。生きているものはいないのか。だんだん、不気味になってくる。これは、誰なのか。どう見ているのか。

 芸術を、信じられるのか。美を、信じられるのか。観客を、信じられるのか。

 「饗宴のあと」の、未来と過去が積み重なった音声を聴いているぼくらにとって、この観客たちの多くは、この建物の記憶も記録も、知らない(見ただけで、わかるわけはないのだから、それは責められないし、ぼくだって、この音声ガイドでカンニングしているから、わかるだけだ)。ぼくたちは、何も見ていない、ということに、突き放される。ひとつのものに、堆積した歴史も、込められた意味も意義も、見えないまま、通り過ぎているだけの人間でしかない。他の観客たちがそう見えると同時に、自分自身もそうであると気づく。

 音声の効果で、現在が、遠くなっていく。眼の前にあるはずの現実と、現在が、遠くなる。未来でも過去でも現在でもない、何か虚無的な場に、突然連れ出されたような気分になる。プロデューサーズ・ノートに、確か、「過去と未来と現在が重なる」という趣旨の内容が書かれていたと記憶しているのだけれど―もうアプリを消してしまったので、不正確なのは、申し訳ない―「重なる」というよりは、「割れる」。その割れ目から、どこでもない場所に、連れ出される。

 それは、どこか。陳腐な言い方をすれば、その「割れ目」の中に入ってしまったと感じるということは、作品の作用により、ぼくに「異化」が起きた、ということである。その「異化」が起きるような空所にぼくらは誘われる。そして、この世界、この空間に対して、観客たるぼくが、認識や物の見方を変える経験をする。

 「物の見方」を変えるとは言っても、それが芸術作品一般の機能を言ったことにしかならない。具体的に「この作品」こそが変える質の体験が、確かにあった。それは、建物と、その歴史と、スマホと、音声と、テクストと、コンセプトなどなどの複合によって、実現している。 この装置、この場所だからこそできるような種類の「異化」が、確かに、ぼくには起こった。それが、新鮮であった。

2、「スマホを持って、街に出よう」

 その新鮮さの原因のひとつは、スマートフォンという新しいテクノロジーに由来する部分は、確かにある。 ここからは、思い付きレベルの話になる。 「饗宴のあと」を観終わったあと、共同編集の長瀬千雅さんとカフェで色々と話した。彼女は、市街などで行われる演劇に強い関心を持っており、寺山修司の話にもなった。そのときにぼくがふと漏らしたのが、寺山は「書を捨てよ、街に出よう」だったけれども、現在は「スマホを持って、街に出よう」だから、そこが大きな違いなのではないか、というセリフだった。 今回の「饗宴のあと」も、スマホという装置が可能にした、いわば展覧会と建物のハッキングのようなものである。これは、応用が効く。どの展覧会でもできるし、ひょっとしたら許可すら取らないでできる可能性がある。

 そのとき、ふと話が飛躍し、イングレスと、地域アートは似ている、という話になった。これはその場での思い付きの話だったのだけれど、ここ何日かイングレスをプレイしてみて、色々と思うことがあったので、ここにメモを残す。

 イングレスとは、2013年末に運用が開始された、グーグルが提供している拡張現実ゲームである。ゲームではあるが、第18回メディア芸術祭エンターテイメント部門で大賞を受賞しているので、ここで「芸術」として比較してみるのも、意義があることであることだろうと思われる。

 スマホに表示される、実際の地図をベースにした画面を見ながら、「ポータル」と呼ばれるローカルなランドスケープに実際に足を運んで、「ハック」したり、壊したり、陣取りゲームをするものと、とりあえずは説明する(詳しくは、wikiなどを読んでほしい)。チームは「エンライテンド」と「レジスタンス」の二つである。要するに、人類は新しい段階に進むべきであるという前者と、保守しようとする後者であり、それは拡張現実やテクノロジーに接するユーザーの態度の隠喩でもある。

 実際にプレイしてみて、イングレスと地域アート(特に、ツアー形式のもの)が類似していると感じられた点について、以下に記す。・その地域の、マイナーなランドスケープを意識させられること(ゲームの面白さから逆算し、「ポータル」が存在する頻度を考えた結果、かなり微妙なものまでが、チェックポイントに設定されている。住んでいても、これをプレイしなければ、知らなかったものが多い)・作品の経験の一部に、身体を動かし、移動することの快感が入り込むこと。(鑑賞する際に、目や耳だけではなく、身体を動かすことにより、有酸素運動や血流の増進、脳内物質の分泌、風や天候などの影響、触感、嗅覚などが総動員される。それらが、作品の経験と切り離すことができない)・そこにあるものの「別種の見方」をさせること(ただし、イングレスの場合は、SFチックなゲーム的設定が上書きされる。地域アートの場合は、固有の歴史などが掘り起こされることが多い)・コミュニケーションやコミュニティが造型される。(イングレスは、海外から指令が来たりして動いたりするようだし、イングレスを通じてコミュニティが作られる。作られやすいように、ゲームがデザインされている)

 違いは、諸々ある。イングレスの場合は、地域振興には役に立たなそうだ。地元の人達が協力するわけではない。SF的な設定である。単純な二項対立である。歴史や記憶には関心を持たない。「異化」や「別種の見方」をさせた「あと」の目的が違う。イングレスは、経験値などのシステムによる快楽を利用している。 しかし、これらの「違い」を考慮してなお、ゲームと芸術という、本来は「サブ/ハイ」と分けられていた領域で起こっていることの、同時代的な類似性は見逃せない。星野太は、地域アートの背景にある「地域主義」について、グローバル時代の随伴現象と呼んでいたが、イングレスなどは、全世界をグーグルマップなどで標準化してしまったグーグルが起こしたグローバル化の次の段階として、極端なローカル性を用いるようになった段階と解釈できるのかもしれない。

 これらは、偶然だろうか。偶然かもしれない。あるいは、同じ、美学的なパラダイムの中にあるのかもしれない。ツアー型の地域アート、イングレス、そしてスマホを用いた拡張現実体験である「饗宴のあと」の三点を、比較参照の点として、設定することで、この時代の「何か」が見えてきはしないだろうか。ハイアートと、サブカルチャーを超える、「何か」が。 単純に、スマートフォンという、非常に便利な新しい端末が普及し、その技術的な新しさを利用しようとする運動が、ゲームからも芸術からも訪れていると考えるのは、技術決定論的で、ぼくとしては割と採用したくなる案である。 しかし、身体を動かすとか、ローカルの価値を発掘するとか、その辺りの「ツアー」型の地域アートの在り方は、スマートフォンとは無関係である。丸田一の関わっている「おもてナビ」は、実際に拡張現実を用いた地方におけるローカル資源をツアーさせるナビゲーションである。また渡邉英徳の「ヒロシマ・アーカイブ」なども、スマホなどを用いて、ある地域を巡るアート作品として興味深いが、これらは例外である。いわゆる「普通」の地域アートは、スマートフォンや拡張現実は活用しない。ローカルな地域資源が発掘されることも、本来はスマートフォンとも拡張現実とも関係のないことである。 ということは、別種の背景により、これらには共通性が生まれていると考えるべきだろうか。

 ちょっと話が逸れるが、先日、松戸市にお呼びいただき、松戸市文化芸術振興会というもので、森川嘉一郎さんと一緒に講演させていただいた。その下見に行った際に、松戸を案内していただきながら、街のなかの色々なものを紹介していただいた(PARADISE AIRや、共同アトリエや、大山エンリコイサムの壁画などなど)。その時の経験と、イングレスをプレイしている経験は、結構似ている感じがする(松戸の方が、全然いいものがあるのだけれど)。松戸で、案内をしてもらって、入った喫茶店は、偶然、「モヤモヤさまぁ~ず2」で取り上げられていたお店だった(「モヤモヤさまぁ~ず2」と、地域アートの隆盛は、同じ背景を持つのではないかと、ぼくはこっそり思っている。「ちい散歩」や「アド街ック天国」との違いは、ちょっと「面白い」ローカルな地域資源に、少し距離を置いた感じで笑いを込めて飛び込んでいくところか)。イングレスでポータルになっているものも、なにかモヤモヤする感じのものが多い。微妙な絵とか、仏像とか。

 演劇・芸術の側からも、高山明の「東京ヘテロトピア」のアプリバージョンが発表された。東京のなかのアジアをスマートフォンで旅させることで、「ヘテロトピア」(日常から断絶した場所)を経験させる試みである。 ある場所を、変えるか、重ね書きしてしまおうという、この欲望は、一体何なのだろうか。「饗宴のあと」と「イングレス」。これらは、重なりながらも、異なっている。同時代の何かは共有していながら、違っている。ここでは、ハイカルチャーとサブカルチャーが、通底しながら、その存在意義を巡って、なんらかの違いを示そうとしている鍔迫り合いが起こっている。その火花が、ぼくにはどうも、面白いようなものに思われる。

 これは本には入らないアイデアノートなので、今後、もっと注目し、体験することで、きちんと発展した論考にできればと思う。皆の意見や批判も参考にさせていただきたいので、色々と意見をいただければ、幸いである。

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1978年東京都生まれ、 編集者。よはく舎代表。担当書籍は哲学思想雑誌『nyx(ニュクス)』、『戦う姫、働く少女』、『ハンス・ヨナスを読む』、『資本主義リアリズム』(堀之内出版)、『きゃわチョゴリ』(トランスビュー)など。

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