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堀田量子ガイドのあとがき

 堀田量子のガイド記事を最終章まで書き上げることができました。約一年かかりました。

 書く前と後で、この教科書についての私の感想が変わったかどうか、気になる方もいらっしゃるでしょう。一年も掛かったのは内容の解釈、咀嚼に予想以上に時間が掛かったからですし、かなりのことをこの教科書から新しく学ぶことになりました。変化が無いはずがないというものです。

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 軽く自己弁護しておきますと、予想外に時間が掛かったのは、内容を早合点してしまっていないかかなり慎重に検討したり、読んでいるうちに生まれた疑問について教科書の範囲を離れて調べたりしていたせいです。今回のように誰かのために責任をもって解説を書こうとするのでなければ、雑な理解で放り出して終わっていたでしょう。

章の構成について

 第 9 章以降は普通の教科書にも書かれているような話なので、もう要らないのではないかと思ったりもしました。もともとそんな後の方の章の解説まで細かく書くつもりもありませんでしたし、自分に書けるかどうかというのもかなり疑わしく思いながら飛び込んだのでした。ところがじっくり読み込んでみると、どの章にも著者の意図や思想が見えてきました。後半は確かに飛ばし過ぎな感じもあって絶対に初学者向けではないだろうという気がしてきますが、考え無しに何もかもを詰め込んでいるわけではないと分かりました。量子力学の体系全体の整理の仕方の道筋を教えてくれているという気がします。

 解説を書きながら実感したのですが、この教科書の内容を初学者向けに解説しようとするとかなり文章が膨らみます。情報が圧縮されて書かれていると言えるでしょう。この教科書はこれからの時代の教科書の見本を作るという構想で書かれているそうですが、まさに次世代を生み出すための種のようなものだと思えます。

解釈について

 純粋状態と混合状態を統一的に記述できる密度行列の考え方には反発心を抱いていましたが、扱いに慣れるに従って抵抗感も薄れてきました。それどころか、系についての観測者の情報を過不足無く表せるこの形式があまりにも美しく、出来過ぎているために、これこそが本質なのではないかとさえ思うようになってきました。理論が美しいためにそれこそが自然の姿だと思い込んでしまうピグマリオン症に気を付けなさいとは理論物理学で良く言われることですが、自分がそれに陥っていないかたびたび考えなくてはならなくなっています。

 この自然界はなぜか情報というものを重視していて、純粋状態や混合状態という違いは単に人間が状況を理解しやすくするために区別している概念なのではないかとすら思い始めています。

 解説を書いている途中で、ひょっとして堀田先生が大袈裟なだけで、主張しておられるようなことが読み取れなかったらどうしようかという不安がたびたび起こりました。もしそうであればその点も批判する覚悟でじっくり解読作業を進めたのですが全くの杞憂でした。むしろ私が書いた解説文の途中にしばしば現れる考察の方が妄想気味になっているほどです。

 しかし世界がなぜこうなっているのかという点については、いまだに分かった気がしていません。そこは簡単に満足してしまわず、これからも追求していかなければいけない部分でしょう。

 ひと通り学んだ後では、この教科書の内容はほとんど自明に思えてきています。単に量子力学のきれいな表し方を学んだだけではないのかという気さえしてきています。

ブラケット記法の導入の仕方

 私の考え方の大きな変化はもう一つあります。ブラケット記法をこの教科書のようなやり方で導入するのはかなり良いだろうという考えにかなり傾くことになりました。今後私が量子力学について何か説明を書くとしたらこの手順を真似るでしょう。

 従来型の教科書では最初に波動関数を使ったやり方でイメージを作り、実用的な計算を学ぶことになります。後になって学ぶことになる行列やベクトルを使った表現は主に理論の整理のためでありますが、かなり抽象的に感じられ、恩恵がなかなか理解しにくい面があります。有限次元の行列やベクトルならば抽象度も減って理解しやすいのですが、これらはスピンや軌道角運動量を表すときくらいしか出番が無く、後から取って付けたようなまとまりの無さを感じます。

 一方、この教科書の導入法では、有限次元の理論にも全て意味があることが理解でき、その延長として波動関数が導入されることになりますから、全体のつながりが良くなっています。

 もちろん弱点もあります。初めて量子力学を学ぶ読者はまだ量子力学的な現象のあれこれをあまり知らないので、説明のために使える用語やイメージが限られています。また、必要となる線形代数の知識をどのように補足しながら説明するかという流れも確立されていません。堀田量子では巻末の付録でそれを補う形にしていました。

他の教科書の紹介

 似たような流儀の教科書は無かったかと思いめぐらすと、堀田量子と同時期に出た教科書のことが思い浮かびます。

 例えば、有限次元のベクトルから始める初学者向けの教科書としては次のようなものが最近書かれており、評判が高いです。

 必要となる線形代数の知識を伝える部分ではしばらく物理から離れなければならないのでそこを越えるのに多少の忍耐が必要で、応援してくれる伴走者がいた方が良いかもしれません。もちろん堀田量子よりは相当に簡単です。

 線形代数から入る流儀のものとして次のような教科書も最近書かれています。

 「シュレーディンガー方程式を解かない教科書」というキャッチフレーズで有名になりました。数学的なこだわりがあり、難易度が高いです。タイトルに「入門」とあるのは「現代的な記述の仕方の量子力学」への入門といった感じに解釈できます。量子力学の皮を被った数学の本という感じにも見えます。第3章のヒルベルト空間についての解説は、数学に疎い物理学者にはとても助けになります。

 スピンの話から始まる教科書といえば次のような有名な教科書もあり、これはかなり以前からありました。第3版の日本語訳はごく最近になって出版されたものです。(私がこの堀田量子ガイドを書いている途中に第3版の上巻だけが出ました)

 この教科書には基礎から高度なことまで、ひと通り色んな事が載っています。混合状態や純粋状態、それらをまとめて表す密度行列の話題も含まれています。しかし量子力学が情報理論であるというような主張を前面に出したものではありません。改訂を繰り返し、量子力学の最近の進展に合わせて必要な知識を取捨選択して詰め込んだという形になっています。初学者向けではありませんのでご注意ください。
 私が堀田量子を紹介したときに「スピンから始めて歴史とは逆順に説明して行くところが面白い」とべた褒めしたために「ならば以前からあるこっちの教科書はどうなんだ」という反発の声が上がって比較されたりしましたが、性質が全く異なります。こちらの教科書ではスピンを基本にして世界の見方を再構築してやろうというような野心は感じられません。


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