見出し画像

今年はみんな頑張ったよね


今年あと2ヶ月切ったよ?やばくない? 今年やるはずだった仕事、全然終わってないんだけど。

一人で焦っていたら、いやいや今年はみんな頑張ったじゃん、それでいいよ、と夫に言われた。


いいこと言う。そうだ、今年はみんな本当に頑張った。それでいいのかもしれない。


気がつけば、5月末の緊急事態宣言の解除から、もう半年が経とうとしている。

それでもまだ、先の見えない緊張感がうっすら現在進行形で続いていて、そろそろ今年を振り返ろうかねえ、というモードにはなりきれない。

しかし、今年こそ、振り返っておきたいと思う。


息子に苦しみ、助けられた


コロナ禍でしんどかったのは、なんといっても息子の登園自粛だった。

4月の2週目から5月末までの、約二か月間。どんなに職場の人たちに理解があっても、有休には限りがある。先が見えないから有休を使いきるわけにもいかない。そして何より、山積みの仕事がある。

結局、夫の有休日以外は、午前中はお休みを取って公園で遊び、午後は息子が膝や背中によじ登ってくる状態で働いた。いったいどうやって成り立っていたのか、もはや思い出せない。


一方で、スタバがテイクアウトを再開した日、胸を高鳴らせてフラペチーノを買って、植物園のベンチで飲んだことは覚えている。毎日あらゆる公園に通い詰めて、しゃぼん玉を飛ばして、すべり台をすべったことも。息子とクッキーを焼いたり、ミニトマトを植えたりと、なんだか母親ごっこをしている気持ちだった。たくさん笑った。

こうやって、楽しかった記憶ばかりを思い出すのって、なんなんだろう。

だって、緊急事態宣言の真っ最中、私は自分に誓ったのだ。10年後になっても、絶対に、このしんどさを覚えておいてやる。まちがっても、「あのときは大変だったけど、なんだかんだ楽しかったね」なんて絶対に言わないぞ、と。

10年どころか、もう半年で言っちゃってるじゃん…。絶対へのコミットが弱すぎませんか…。

自分よ、ちゃんと思い出そうぜ。5月の中旬、緊急事態宣言が延長されるかもしれないというニュースを聞いて、ひとり布団の中で泣いたことを。あと一週間でもこの状態が伸びたら限界だ、本当に耐えられないと、ふるえたことを!!


ただ、あのとき、ちゃんと時間の感覚を維持できたのは、息子のおかげだったと思う。これは認めざるを得ない。

2歳半の子供は、毎日ぐんぐん成長する。昨日できなかったことが、今日できるようになる。今日できなかったことが、明日できるようになる。4月の頭には、鉛筆もクレヨンも握らなかったのに、線を書くようになり、1と2を書くようになり、4と7を書くようになり、あっという間に1から100まで書けるようになった。

息子は、自ら鉛筆とノートを探し、自ら椅子に座り、大好きな数字を書きなぐってはニヤニヤするようになった。一人で絵本を読めるようになり、走るのも早くなり、シャボン玉も吹けるようになった。

あの緊急事態宣言の間、何もかもが停滞してストップしたような感覚に、苦しんだ人がたくさんいたと思う。特に、現状の居心地が悪く、変化を望んでいる人――転職や入学、引越し、結婚や離婚に向けて進んでいた人たちは、身動きが取れずに先が見えなくて、相当しんどかったはずだ。

私が、そういう苦しみを味わなかったのも確かだった。


結婚がゴールだったエミコになる

noteを読んでくれる人が増えたのも、コロナ禍で鬱屈としている時期だった。このnoteを書いたのが、きっかけだった。


読み返してみると、あまりのくだらなさに愕然とする。自分みたいな女がパンを焼いている、その事実にどうしても耐えられなくて、身悶えながら、言い訳のように書いた日記だった。こんな、うじうじねちねちと生きてきた断片を楽しんでもらえるなんて、なんと果報者だろうと思う。

その勢いで、「結婚がゴールだったエミコ」と名乗りだしたのもこの時期。 緊急事態宣言中のテンションで、変なストイックさを発揮してしまった。

ちなみにこの名前は、「結婚したからって幸せになれるなんて、そんなファンタジーを今どき信じているわけないし、そもそも私なんかが結婚できるわけないし、それでも自分はどうしても結婚してみたいんだと気づいてしまったので、それなら幸せだろうが不幸だろうが、結婚をゴールに据えて走ってみようと思っていたエミコ」というゴテゴテの自意識の短縮形です。

そのあとも、誰かと会っておしゃべりができない鬱々とした気持ちの行き場を求め、寝かしつけの終わった布団の中で、いくつかの日記を書き殴った。一番読まれたのは「キムタクが国民の元カレになった日」で、とってもありがたかったけど、自分で好きなのはこれ。



自分の書いたものを好きとか言うの本当に恥ずかしいけど、20年以上、一人で抱えてきた忌まわしき記憶を放出できた解放感がすごかった。あさがお農家の皆さんには申し訳ないけれど、私はあさがお栽培を心から憎んでいる。


東京の生活史プロジェクトに参加する


なんと、岸政彦さんの本に、書き手として参加できることになった。

150人いる書き手の一人とはいえ、なんかもう、奇跡みたいでまだびっくりしている。

東京を生きてきた人たち150人が、どうやって日々を暮らしてきたのか、その人生の語りを残すという作業。岸さんの生活史の記録が大好きなのに、その一端を担えるって、なんかもう幸せすぎませんか。すでに研修も受けて、数々の名言を拝聴している。

思えば私は、小さい頃から歴史や伝記やドキュメンタリーが大好きで、「忘れられた日本人」なんてもう何回も買って読み返している。ああ、やっと読むだけではなくて、書き残す側の役割をほんの少しでも担えるんだな、と感激している。

とはいえ、聞き取りが終わって、「これ絶対に面白い」と、「人生の語りを汚したくない」のはざまに立っている。気が抜けない。ちゃんと語り手を尊重しながら、敬意を持って、丁寧に仕上げていきたいと思う。



二代目もぐら本の編集長になる


今年5月にもぐら会から発行された、通称もぐら本。私は企画制作には携わらず、執筆者の一人として参加した。


来年も出したいな、誰も言い出さないな、どうしようかな…とウズウズして、結局、二代目もぐら本やりましょうと言ってしまった。先月の話だ。

私は、もぐら会や初代もぐら本から恩恵ばかりを受けているので、自分も何かを提供しなくてはと考えていたところに、東京の生活史プロジェクトから受けた刺激も相まって、そういうことになった。

ちなみに、初代もぐら本で書いた原稿がこちら。


これがきっかけで、「自分の話なんて誰も読みたくないだろう」という気持ちから、「それは誰かが決めることだし、別に書いてもいいのかも」と思えた。この機会が無かったら、このnoteも、もぐら会も、続いていなかったと思う。

二冊目も、「名前も知らない誰かが、他ならぬあなたの目によって、誰とも同じではない、ただ一人の誰かになる(BY紫原さん)」ことを体現できるような本を作りたい。



というわけで


今年もみんな頑張ったよね。それでいいよね。とか言いながら、私いろいろ頑張りましたけど何か、みたいな記録をつらつらと書いてしまった。恥ずかしいね。

コロナで先の見えない、混乱している時期だったからこそ、先の見えないものにとりあえず手を出してみる、ということができたのかもしれない。普段は、先が見えないものなんて、怖くて踏み出せないので。


つまり、何が言いたいかというと、このnoteを覗いてくださった皆さんに、たくさん助けられた一年でした。みなさんは、どんな一年を過ごしましたか。そしてあと一か月半、何をしたいですか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?