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コーチングの”怪しさ”について真剣に考えてみた。

大前提、コーチングは、ここ数年でとても一般化されてきていると思う。コーチングというもの自体の認知度は高まっていて、今では「なんとなく聞いたことある」という地位は獲得しているし、受けたことがある、という人も身の回りにチラホラ現れるようになってきた。

これは私がお世話になっているmentoを始め、様々なサービスが増えてきているので、コーチング全体がポジティブなイメージを持つようになってきているのだと思う。

しかし、根強いイメージとして「コーチングはなんだか怪しい」というものが存在するのもまた事実。
そもそも、私自身が「コーチングはなんだか怪しい」と思い続け、ただし興味関心はあるので学んでみよう、受けてみよう、本当にあやしいかどうか確かめたい!と思ったひとりでもあったり。
(語弊のないように言うと、決してこれだけがコーチングを知ろうと思ったきっかけではないので、あしからず)

しかし、なぜそもそもコーチングは「怪しい」と思われてしまうのか。そんなことについて考えてみたいと思う。

そもそもコーチってどんな人かよくわからない問題。

(コーチングがそもそも分かりづらいうえに)コーチングのコーチがどういう専門性やスキルをもっている人なのか、いまひとつわからない。これ、けっこうな課題な気がする。

よく、コーチングはコンサルティングとは違うものだ、と比較で言われることが多い。
コンサルティングとは一般的には、相手に自分の課題を解決してもらうものであって、コンサルティングを時間でも買う価値は「自分では解決できない課題を、コンサルタントによって解決に導いてもらう」ことが重要で、大抵の場合それは、「自分が悩んでいることに、自分よりも専門性のある相手」に頼むことが多い。

例えば、個人で言うと、ファイナンシャルプランナーに運用の相談をしたいとか、転職のときにキャリアコンサルタントに相談したいとか。最近だと婚活するためにイメージコンサルタントに相談したい、あるいはダイエットのためにパーソナルトレーナーをつけることも、この類だとおもう。

基本的に個人がお金を払うというものは、自分より相手の方が知識的に知っていることが多くて、自分には解決できないことを教えてくれる。だから、お金を払いたいと考えるのだ。

自分が悩んでいる分野(結婚とか、キャリアとか、ダイエットとか、英会話とか?あるいは確定申告?)に専門性の高い人ではない人に、なぜ、お金を払うのか?自分がそれで何を得られるのか?これがまず最初に頭にハテナマークのつくポイントだと思う。

「すごいから、とにかくまずは受けてみてよ」になりがち問題。

少し興味を持ってみて、コーチングの感想なんかを調べると出てくるものの殆どが「スッキリした」「目の前のモヤモヤが薄らいだ」すごいところまで行けば「人生観が変わった」と言うレベルのハイパー抽象度の高い感想が出てくること。

私はいまコーチングを受けたり学んだりしているので、その感想を言いたくなる気持ちはとてもわかるし、この感想はとてもとても正しいのだけど、側から見ると「え…どゆこと…」という戸惑いがあるのもとてもわかる。

コーチング体験自体が、日常生活での経験とかなり異なる時間を過ごすことになるので、そういう意味でも「ちょっとむやみに人に勧めたくなってしまう」のだけれど「受けた本人もどう説明していいかわからない」ので「とにかく受けてみてよ」になりがちである。

なんか怪しいものにハマったんじゃないかとか、壺を買わされたんじゃないかとか、そういう疑いすら、かけたくなってくる。新しい教えでも受けたんじゃないか…。やはりあやしいのではないか…。もごもごもご。
人間はモヤモヤを抱えるよりは、スッキリしたいし、そりゃできる限り良い方向にしていきたい。
その欲求を刺激したビジネスはこの世に沢山あって、なんとなく「自己啓発」の皮をかぶって、悪いことを企む人たちもいる。大人になればなるほどそう言う人によく出会うこともまた事実なので、余計に疑念が生まれる。

1時間数万円のコーチング、という金額感も、ある種の疑念を誘うポイントで、「え。この専門性がよくわからぬ人たちと1時間話すだけで・・・?」と、だんだん怖くなってきてしまう。だから、結果として受けるのをやめよう。という結論に至ってしまう。

なので、個人的にはこの「怪しさ」故に、コーチングが過大評価もされてしまっているし、過小評価もされてしまっている。とってもいびつな構造の中にあるな、と感じている。

コーチングは、万能ではないことを知っておく。

そもそも、コーチングの根本は、発話的思考法だといわれている。発話とは「口に出して言語化することで気づきを促す手法」のことで、コーチとはこの「問いかけ」の専門家である。

人は、自分で考えるけど、言語化できていないことが非常に多い。これを強制的に言語化する目的で、発話(自分で言葉を発する行為)を使う。誰かに話すということで、半ば強制的に言語化していくことで、自分の考えていることの輪郭をハッキリとさせていく。

よく、ノートに自分の考えていることを書き出して「棚卸し」してみることをすることがあるが、それの対話版。それが、コーチングで起こす効果のイメージしやすい説明かな、と個人的には思う。

クライアントはコーチの「問いかけ」に答える形で自分の思考を言語化していき、頭の中を整理したり、目標を決めたり、それに向けた行動計画を決めたりする。

自分がとにかくコーチに向けて、話していくことで、自分の状態が言語化できるようになり、自分が何かに向かおうとする時のモヤモヤの原因がわかったり、自分がどんな方向にいきたいのかに気づくことができる。これがコーチングの根本的な仕組みだ。

セルフコーチングという言葉もあるくらいで、この問いかけが自分ででき、かつ、言語化ができる方の場合は、いわゆるコーチという存在は必要ないものなのではないか、と私は思う。ただ、コーチという存在を頼ることによって、早く、深く、自分のことを言語化できるようになり、結果的に、目標達成が早く進むと言われてはいる。

(このあたりの仕組みの詳細はTHE CORCHのこばかなさんの有名なnoteがあるのでご参照ください。)

大事なことは、コーチングは万能ではないということだ。

例えば、あなたの転職したいという相談に対して、「どうすれば年収が上がるか」「どうすれば希望の職場に行けるか」「紹介できる求人はどんなものがあるか」「何歳までに転職するのが有利か」ということを教えてくれるのは(どちらかといえば)キャリアコンサルタント側の得意分野である。顕在化した課題に対しての確かな方法論を提示してくれることが、コンサルティング領域の得意分野。課題によっては、即効性も高い。

一方で、「そもそもなぜ転職をしたいのか」「転職によって何を実現したいのか」「どんなキャリアを望んでいるのか」というようなことを明らかにしたいのであれば、これはコーチングの得意領域だと言えるだろう。これらはすべて正解がなく、自分自身の中にしか答えのないものたちであり、他の誰がどう言おうと、あなた自身が納得して動けなければ意味のないものだからだ。

このようにあなたが抱えている課題によっては、コンサルティング、ティーチングのアプローチを選ぶほうがフィットする可能性も高い。その大前提で、コーチングを受けるかどうかは、決めたほうがよいと思う。

ただ、どっちか迷うようであれば、まずは先にコーチングを受けたほうが良いと思う。なぜなら、迷っている時点で、課題は顕在化しきっていないからだ。課題が顕在化しきらない状態で、方法論に飛んでしまうと、思わぬ後悔を生む可能性がある。

先程のキャリアの例で言えば、コーチングの場では、転職相談から、予想外の結論がでてくることは多数ある。転職の話をしていたのに、自分の上司との関係になったり、家族との関係になったり、はたまた恋愛話になったりもする。表出した部分の気持ちが「転職したい」だっただけで、本人が悩んでいるところは全く他のところにありました、というのはよくある話なのだ。

そういう意味で、たしかにコーチングは万能ではないのだけど、「前向きに悩んでいる」という人は、一度は受けてみて損はないのかなと思う。

(ご参考までに、もう少し気になる人はmentoの丹下さんが書いた、どんな人にコーチングが向いているかを書いたnoteをご参照ください。)

コーチは、”超”フラットであり続ける訓練をしている。

自分以外の他人に話を聞いて、言葉にすること(=発話)に価値があるんだったら、極論、聞き上手な友達にモヤモヤを聞いてもらうだけでもよくない?という意見もあるかもしれない。

ただ、実はコーチングという意味で言えば、友人をコーチにするのはあまり適切ではない可能性が高い。友人はあなた自身について、知っていることが兎にも角にも多すぎるからだ。

知っていることが多いと、訓練を積まない限り、ポジティブにもネガティブにもバイアスがかかる。「きっと◯◯さんはこんな人だ」といったように、今までの過去の集積から導かれる推論や仮説に引っ張られていくことが多い。

大前提、友人たちはとてもあなたのことを大事に思っている。だからこそ、ポジティブな、前向きな方に、励ましてくれることもある。何なら一緒に怒ったり泣いたりしてくれることもあるかもしれない。

これは、素晴らしい価値だ。けれど、過去の情報に引っ張られすぎると、今のあなた自身がどうしたいか?いまのあなた自身の気持ちはどうか?というところに意識が向かなくなる恐れは大いにあるし、その仮説を「言語化された」ことで、あなた自身の行動を縛る可能性もあるものである。

その点、コーチは”超”フラットな伴走者である。というか、その訓練を積んでいる人たちだと思っておくのが良いかもしれない。

わたし自身がコーチングを受けていて思うのは、コーチは評価もしないし、否定もしないということ。「いまここにいるわたし」がどう見えているかをフィードバックし、その輪郭をはっきりさせるためだけの質問をぽんぽんぽんと投げこんでくる。場合によってはめちゃくちゃ予想外の質問の投げ方をされるので、こちらが言葉にできないことすらある。でも、むしろこの「言葉にできないこと」にいきつくためには、とにかくこの瞬間の目の前の相手を見続けなければいけないのだ。

アドバイスをしたり、誘導したりすることもなく、その人に鏡のように問いかけ続けることができる。これがコーチのもっとも重要なスキル(スタンス)だと私は思うし、プロコーチと呼ばれる人たちが、訓練し続けて獲得していることだとも思う。

自分の他人へのバイアスを捨てるのは、実は非常に難しい。自分が共感できる相手であればあるほど、ついアドバイスをしたくなるし、コンサルティングをしたくなるし、仮説を立てたくなる。また、知識としての専門性を持っていると「こうした方がいい」と言いたくなってくる。

これらを一切排除して、問いかけを投げ続ける訓練は、やり続けないとできなくなっていく類のものだ。コーチングは筋トレだというけれど、まさにそうだな、と思う。

あとは別の観点で、第三者だからこそ、思い切って自己開示できるというクライアント側(相談者側)のメリットもある。自分の悩みを開示するときに、親しい間柄だからこそ、人は本当のことを言えなくなることがある。相手のことがが大事だから、どう思われるか不安ということで、本心から目を背けようとする。

その点、いまの日常生活と全く繋がりのない人に話せるのは、気が楽だし、話しやすい関係性を築くことにもなる。話す側も「こう見られたい」という気負いがなく、フラットでいられるのは、メリットだろう。

コーチングは、”あやしい”ものか?

学んでみると、うえにも書いたとおり、やっぱりコーチングは体系だった技術であることもよくわかるし、プロを名乗るコーチの方々が、どう訓練しているのかもよくわかる。なので、結論、全然あやしくないよ。とは言いたいところはある。

ただ、1対1のクローズドな場で提供されることもあって、中身が見えないこともあり、あやしいっていう気持ちもむちゃくちゃわかる。コーチングという皮を被って良くない企みみたいなことをする人たちはいるので、ちょっとコーチングに興味あるなぁという人は、身の回りにいる人に相談してみるか、独自の基準に沿って審査されているサービスを通じて、気軽に受けてみることをおすすめしたい。

(コーチングのいろいろな誤解については、mentoのキムラノリさんのnoteもご参照ください)

さいごに宣伝

と、いうわけで宣伝的になっちゃうけど、私がコーチングを学ばせていただいているmentoのコーチングサービスのリンクを貼り付けておきます。ここで審査を担当されているマスターコーチのセッションを受けたことがありますが、速さと深さがすごかったので、信頼ができます。つまり、一定の品質は担保されているし、ちゃんと口コミもあるので、安全な入り口になります。

もうひとつ。わたし個人としても現在、セッションを受け付けています。私は初回セッションはお気軽価格でやっています。ランチ1回分。往復交通費くらい。もしも興味を持っていただいた方はこちらからお申し込みください。価格は安いですが、真剣にやりますのでご安心ください。

興味を持ってくださった方は、以下も先に読んでいただけると嬉しいです。


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