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ソシャゲを全くしない奴wwww

自分が世の中についていけない古い人間なんだなと感じる瞬間の一つは、ソシャゲに興味が持てないときだ。


というのも自分は全くソーシャルゲームのようなものをやらないタイプの人間なのである。もう今の時代「ゲーム何してる?」という質問は実質的にソシャゲのことを聞いているといっても過言ではないほどに普及している。

今時自分のような「スマホはゲームには向かない」と考えているような層は古いタイプの人間で、コミュニケーションツールとしてソシャゲの人気は高い。

実際ソシャゲのCMもクラスの仲間とワイワイすることをイメージしたものが多い。


そしてもはや今の時代専用のゲーム機や環境をそろえて本腰を入れて本格的にコンシューマーゲームをするというのはあまりにも敷居が高い時代になっている。

PS4+ネット環境+ソフト+自分の部屋+自分のテレビを完備できる人などとくに若い世代にはおおくないだろう。

ウイニングイレブンがリア充のパーティーゲームだった時代は終わっており、今はファストフード店に集まってソシャゲの話をすることが最先端のスタイルになっている。


自分はこの問題をよくファストフードと懐石料理の関係に例えることがある。

ゲームというのは何よりも身の回りで誰かをやっていることの方が大事で、「誰かとやる」ということの方が圧倒的に楽しいし自分もそこは否定しない。

高級料理店でしっかりとしたマナーを守って一人で食べる懐石料理より、フードコートやファミレスでみんなでワイワイ食べるファストフードの方が美味しいのと同じだ。

いくら高級料理でも一人で食べれば物足りないし、逆にファストフードでも誰かと食べれば楽しい。コミュニケーションや一体感に勝る快楽はない、それはゲームにおいても例外ではない。

ネット、リアル問わず、ゲームは何らかのコミュニティに対する帰属意識の方が実は重要な魅力なのだ。


ゲーミングPCまでそろえて本格的にゲームをしてる人が「最先端のゲームはこれだけ面白いんだ」と力説しても、そもそもそこには手が届かないしすでに持っているスマホでできるゲームの方が気軽なうえに楽しい。

高いゲーム機をそろえてちゃんとした環境でゲームをしたところで、昔からやっている既存層やガチ勢に勝てずに終わるだけでしかないならばコスパは悪い。更に身の回りでは誰もそこまでガチにゲームをやっていないので話が合う人も少なくなる。

ゲームはプレーしていないときに、その話をすることまで含めてゲームでもある。


これは剣道で防具をがんばってそろえて必死に練習してやっとこさ道場に行っても、何年もその道を究めてる上級者のサンドバックになるしかないのと同じだ。

今の時代真剣に最先端のゲーム機をそろえて最先端の環境をそろえてゲームをしても、ガチ勢や既存層のサンドバックにしかならない。これは若者のコンシューマーゲーム離れが進むのは仕方がないともいえる。


更に社会人としても課金すれば勝てるようになるというのは、プレー時間が確保できなくても勝てるということを意味する。忙しい社会人にとって時間をお金で補えるというのは実はよほどコンシューマーゲームよりフェアだと言えるのだ。

学生だけでなく大人までソシャゲを選ぶ背景というのは、ゲームがガチ化し過ぎたことや敷居が高くなり過ぎたことの反映だといえる。

そしてソシャゲがそうして主流派になっていくと浮動票のような中間層もソシャゲに流れるという現象が発生し、今ソシャゲはもはやコンシューマーをしのぐ存在となっている。


「最近ゲームのCMが少なくなった」と思う人はいないだろうか、しかし同時にソシャゲのCMは増えているのである。昔ながらの発売式のゲームのほうがワクワクしたと自分は思うが、そういう時代を続けられたのは日本の歴史においてほんの一瞬の時代だったともいえる。

ゲームショップというものは徐々に少なくなり、ゲーム機やゲームソフトの発売に合わせて電気屋に並ぶ光景が社会現象になることもなくなった。

その一方でソシャゲは年々大きな存在になり、有名芸能人がCMに出たり現実でもソシャゲをしている人は多く流行をけん引している。


しかし自分はそれでもソシャゲをやろうとは思えない。

一回ポケモンGOがサービスを開始した時に始めたことはあるのだが、ブームも過ぎ去ってほとんど起動しな様になりついにはアンインストールしてしまった。

ソシャゲはよくもわるくもソーシャルで、社会のブームに乗っている時は一体感や帰属意識が得られるがそのソシャゲがオワコンになりブームが終息したときは何も残らず虚しいことに気が付いたのだ。


身の回りにプレーする人がいなくなったり、世の中で流行らなくなったときのソシャゲは価値として危うい。これが昔のオフラインゲームなら世間で流行ってなくても、自分のオフラインで完結できるので何年後も楽しむことができたのだがソシャゲはまさに「ソーシャル」次第なところがある。

流行に乗っている時は間違いなく楽しいが、誰もやらなくなると本当に虚しい。ソシャゲのデータというのは数年後の価値があやういという印象を受ける。


古いタイプの人間といえばそれまでなのだがコミュニケーションツールや話題の種としてもゲームではなくともいくらでも話題がありふれている時代に、話題のためだけにゲームをするというのも自分には出来ない。他の話題がいくらでもあるのでゲームをしていなければ話題についていけないというのは自分の感覚としてはわからないのだ。


ただクラスの中でそのゲームが流行ってるからやるというのは理解できる部分がある。

というのも自分が高校の頃はギリギリPSPの時代だったので、ソシャゲがクラス内で流行るというのもなかったという事情がある。クラス内で流行ってるゲームをやることは自分もやってたけれども、それがソシャゲではなかったというただそれだけの違いなのかもしれない。

それでいえばゲームが無かった時代には「流行ってるゲームをする」という概念すらなかったのだから。


更に自分の知り合いもソシャゲをまったくやらないタイプどころか、むしろソシャゲアンチのような人なので友人間のコミュニケーション目的としてもやる必要がないという事情がある。古い人間はやはり古い人間と話が合うのだ。


ただ自分の家族は結構ソシャゲをやっているタイプで勧められたことすらもある。結局自分はゲームをするならPCか携帯ゲーム機だと思っているので断ったが、どうしても「ソシャゲは性能が劣る」という偏見がある。

スマホを起動させる時は普通にウィキペディアのようなテキスト主体のサイトを読むことが多く、スマホでまでゲームをしたいという気にはなれない。

コントローラーやマウスですることに慣れ過ぎてスマホは慣れないし、携帯ゲームもあるのでわざわざスマホでまでゲームをする気にはなれない自分がいる。

ポケモンGO以外全くしていないためソシャゲの実態がわかってないからこその偏見なのかもしれないし、通信費や課金代を節約しようという考えもある。


ただ今の若い世代にとってユーチューバーは当たり前にソシャゲをしているし、身の回りもソシャゲをしているという環境がある上にコンシューマーゲームをしたことがない人の方が多いかもしれない。

実際FPSでも昔は「パッドでFPSをやって、マウスでFPSをしている人に憧れる」という時代からパッドFPSをすることすらなくなって「スマホでゲーム実況動画を見てFPSに憧れる」という時代になっている。

学生の集まりでウイニングイレブンをするという時代でもなくなり、クラスの友人でPS4+テレビ+ネット環境をそろえてる人など一人もいないというのが当たり前になってきているのではないか。

そう考えるとソシャゲしかする機会はないし、ソシャゲで十分だという考えになっても不自然ではない。


ただこれは年長者の「自分はいいものを知っている」という自慢や大きなお世話でしかないだろうし、それは古い意見にしか聞こえないのだろう。

例えば自分がストロングゼロや氷結のような安酒を飲んでいて、「本物の酒をしらんのじゃなぁ、あんなまずい酒飲めんわい」と言ってくる人がいたら「自分は自分の範囲内で飲んでるんですよ」と反論したくなるだろう。


誰もやってないことをわざわざ環境をそろえてやる意味がない、それが世の中のコンシューマー離れの一因になっているのだろう。

高級懐石料理を虚しく一人で食べるより、身内の仲間とワイワイファストフード店に行った方がよほど面白いのと同じだ。

どれだけ味のよい高級料理や高級酒、性能の高いゲームよりも、手軽にみんなで楽しめる食事やゲームの方が面白い。

現実的に後者をするしかない上に、後者の方が楽しい。誰かがやっていること、そして簡単に始められるという利便性、それはゲームに限らず時としてクオリティ以上の価値になるの。

ソシャゲが流行るのは必然といえば必然なのかもしれない。

面白いとおもたら銭投げてけや