「外国人」っぽい日本人サッカー選手が増えれば日本はワールドカップで優勝できる

エルケン

日本の近代の歴史、すなわち明治維新以降を見るとひたすら「西欧人化」してきた歴史がある。

近現代の日本人は少なからず外国人っぽくなってきている。

戦前はイギリスやドイツを見習い、戦後はあらゆる面でアメリカ人化してきた。

それを言えば縄文時代の頃の日本人が純日本人だとすれば、その後当時の先進国の隋や唐を見習い遣隋使や遣唐使を派遣し「中国人化」を目指して発展していた時代があった。

太古の昔から日本人は外国人化してきたのだ。


今の日本サッカーを見ていると懸命に西欧の文物や文明を取り入れていたころのような雰囲気を感じる。ブラジル、スペイン、ドイツ、イタリア、アルゼンチンというサッカー先進国の文明を貪欲に取り入れようとしている。


日本で最初の外国人っぽい選手といえば中田英寿であり、日本における「個人」の概念を確立した選手の一人であることは芥川賞作家村上龍も触れている。

もちろん彼以前にドイツで足跡を残した奥寺康彦やブラジルに挑戦した三浦知良も存在する。


その後本田圭佑が全盛期には外国人相手に競り負けず、たとえ元バロンドーラーのカカーが相手でも意見も主張するような選手になり、長友佑都がインテルで「もはや彼はナポリ人」といわれるほどにイタリア人化したり、香川真司が謎のコミュ力で海外に溶け込んだり馴染んだりしてきた。

一見するとラテン系の象徴であるイタリア人でも、インモービレのように海外に溶け込めなかったり、スペイン人のヘスス・ナバスのように実はホームシックでなかなか海外に移籍しなかったような選手がいることを思えば欧州サッカーの舞台で活躍できている日本人選手は外国人にも負けないコミュ力があるといえる。


更にプレースタイルの面でも外国人っぽいプレーをする選手が増えている。

たとえば今ポルトガルで流行の中島翔哉はJリーグより海外の舞台に適合したし、乾貴士のドリブルを見ていると遠目からなら南米人のようなリズムやタッチ、アイデアに見える。武藤嘉紀のドリブルからの強引なゴールはまるでアフリカ系の選手だ。


海外サッカーを見ていて日本人であることにコンプレックスを感じなくなったとき、それは日本のサッカーが世界に追い付いたということだろう。

理想は日本人選手が海外でプレーしていても特に意識をせず、むしろ気付かないようになることだろう。

アジア人の選手でいえば韓国のソン・フンミンも欧州人や南米人のようなプレーをしておりアジア人が当たり前に欧州の舞台に存在するという日常風景が確立されていく必要がある。


たとえばハリウッド映画を見ていてアジア系の俳優が登場することはごく普通のことになっている。

白人、黒人、南米人、そしてそこに新しくアジア人が加われるかどうか。

海外サッカーを見ていてわざわざ黒人や南米人の選手がいることや人種について意識することはないだろう。黄色人種やアジア人もそのような存在になっていかなければならない時が来たし、そうなろうとしている。


乾貴士のドリブルが南米人っぽく見えるのは彼が大のスペインリーグファンであり、そういう選手をよく見てきたからだろう。おそらく伸び盛りの時期にロナウジーニョのプレーに衝撃を受けた世代だ。

そのためにはもっと海外サッカーを視聴する文化や機会が増えてもよいのかもしれない。


明治維新の頃は福沢諭吉が「脱亜入欧」を唱えたが、アジア的サッカーから本格的に欧州や南米の基準にどう突入していくかを真剣に議論する必要があるだろう。かつて明治維新を成し遂げたようなエネルギーやモチベーションが必要になる。

スペイン語やポルトガル語のサッカー用語は日本以上に多岐にわたっている。たとえば「ドリブル」についても運ぶドリブルと抜くドリブルの違いを区別するような言葉があり、シミュレーション行為についても独特な呼称が存在する。

これは福沢諭吉や西周(にしあまね)がかつて西欧の近代用語を漢字語に置き換えたようなことが必要かもしれない。

フィロソフィーをいちいちフィロソフィーといっていたら面倒なので彼らは「哲学」という言葉に置き換えた。リパブリックもよくわからないので、「共和国」にし、ピープルも「人民」に置き換えた。

中華人民共和国という国名があるが、実は人民も共和国も近代において日本人が開発した用語でもある。

しかし戦後になりこういう活動は途絶え、テレフォンを「電話」と訳したがインターネットはそのままインターネットだ。しかしスマートフォンは「スマホ」になっていたり独特な日本語を形成している。


元々日本という国はこうして海外の文明を取り入れることが得意な国でもある。

「日本人が外国人っぽくなる」というと日本人の魂が失われるのではないかと危機感を持つ人もいるが、そんな人も実はすでに西欧化されきっているのである。こういった文章の現代日本語でさえすでに西欧化されているし、米食よりパン食が増えたというのはもう数十年も前に言われていることだ。

最近の日本人は日本人っぽくないという人がすでに昔の日本人に比べるとかなり外国人っぽくなくなっているのである。そしてそういうことを戦前どころか奈良時代のころから繰り返してきたのが日本人でもある。



寺子屋から学生になってイギリス式やアメリカ式の教育を受けて育ったのが現代日本人であり、戦後はとにかくアメリカの文化を受け入れた。

邦楽でも英語の歌詞が当たり前に使われているが、日本人は周りを見渡せば当たり前のように外国人になることをやってきた。

織田信長が鉄砲に着目したように、海外の文明を取り入れればリードすることができるのだ。それと同じで、矢沢永吉のように楽曲に英語の歌詞を使えば偉大なアーティストになれるのである。


昔アジア人から「日本人は見た目はアジア人なのに中身は西欧人になっている」といわれていた時代があったらしいが、ある意味で日本人のフィジカルでありながら海外選手のようなプレーをする選手が今後増えてくれば日本はサッカー先進国に追い付けるようになる。

一昔前にスペイン代表が世界を席巻したが、その時の体格が日本人選手とあまり変わらないといわれていて参考にするべきだといわれていた。

イタリア人やスペイン人の平均身長は日本人とそれほど変わらないため、それほど体格に違いはないように見える。骨格など見えない部分では異なるのも事実だが、先住民の血がはいった南米人のフィジカルと比べるとまだスペイン人のフィジカルは差がない。

具体的な選手名でいえば日本からイブラヒモビッチやドログバのような体格の選手が優れたサッカー能力を兼ね備えて現れることはないだろう。

またメッシやネイマール、アレクシス・サンチェスも似たような体型だが骨格やバネの部分で異なる。


しかしイニエスタやシャビ・エルナンデス、イスコ、ヴェラッティ、モドリッチなどを見ていると絶望的な差があるとは感じられない。

日本人がイブラヒモビッチになることは無理でも、イニエスタやモドリッチになることはできる。

違うのはサッカーを感覚として身に着けているか、文化として身に着けているか、もちろんフィジカルの差はあるがそういう精神的な差異でしかない。

現に日本から9秒台に突入するスプリンターも現れた。

スペイン人の記者がむしろ日本人のフィジカルが自国の選手より優れていると分析したのがロンドン五輪での活躍だ。


元々ヨーロッパ人は有色人種や東洋人を下に見ていた、西欧の優れた文明をアジア人に真似できるはずがないと。

それを覆したのが日本だった。当時の清、今の中国がイギリスに敗戦したことでこのままではアジア全土が植民地にされるという危機感を持ち、徹底的に西欧文明を取り入れるようになる。


その結果アジア人でも頭を使いさえすれば西欧人と同じことができるようになることを日本人は証明した。

当時の列強の一つに数えられるようになり、国際連盟でも発言権を持つ5大国になる。イギリス、アメリカ、日本で海軍軍縮条約の会議が開かれるまでになり、戦後はノーベル賞でも欧米に引けを取らなくなった。

今日本サッカー界は懸命に欧州サッカーや南米サッカーを見習おうとして、個々の選手でも外国人っぽい選手が増えてきている。


その一方で和洋折衷や和魂洋才とも言われるように、先進の海外文明を一方的に取り入れるだけでなくミックスしていく必要がある。

たとえば乾貴士とは逆パターンで、内田篤人はラウル・ゴンサレスすら知らないほど海外サッカーを見ていなかったが、一時はドイツブンデスリーガ屈指の右ライトバックの選手にまで上り詰めた。日本的なサッカー育成や感覚も決して間違っているわけではない。


現にJリーグ文化も成熟してきており、ちょうどいい塩梅で海外サッカーファンと国内サッカーファンが混在している文化が形成されている。

野球のようにファンの興味が国内リーグやMLBの日本人選手一辺倒というわけでもなく、一昔前のバスケのようにファンの興味の対象がNBA一辺倒だったというわけでもない。

その両方があり、両方ともみている人も当然存在する。

人種の坩堝という言葉があるが、日本のサッカー自体ブラジルやドイツ、スペイン、メキシコ、イタリアなど様々な文化を取り入れてきた側面がある。最近ではハリル監督により東欧的なエッセンスも持ち込まれ始めている。

そしてそこに日本人的な感覚やセンスをどう持ち込むか、それが果たせたとき日本は面白いサッカーを作り上げられる。

そしてワールドカップで優勝できるのではないか。

ブラジルワールドカップ惨敗でW杯優勝という言葉を口にしてはいけない雰囲気になったがいきなり大きな目標が達成できないのは当たり前だ。


「空を飛ぶ」と夢見たライト兄弟はいきなり飛行機で飛べたわけではないし、空へのあこがれは人類が有史以来夢見てきてやっとかなえられたことだ。

夢を見続けることが夢の実現の必須条件だとするならば、今もワールドカップ優勝への憧憬を保ち続けることがその第一歩だろう。

ワールドカップに出場するという夢はすでに20年も前に実現された。

あとはもう優勝するだけだ。

海外の文明を取り入れ本家以上に改良したものを作れる日本人がサッカーで同じことができないわけがない。

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