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カトリックの国で見つめ直した自分のID〈わたしは何であるのか?〉

わたしを変えた旅先の出会い。それはキリスト教。
キリスト教との出会いは、卒業旅行先に選んだイタリアだった。選んだのはほぼ思いつきだった。

本当はアメリカに行こうと思っていたのに。
アメリカに2週間、語学留学しに行こうと学校を選ぶために留学エージェントにまで行っていた。

思いつき、とはいってもそれなりの頭の弱い理由はあった。
大学の先生の手前、アメリカに行くと言い出しにくかったから。なぜなら先生はアメリカが好きではなかったのだ。

今考えるとアホらしいが、師弟関係を若いながらに忖度した結果、じゃあイタリアならいいんじゃない?とひらめいたからだった。

結局、先生には「なんで今行くのよ。6月にも行くでしょ。」と文句は言われた。そう、6月にも先生の知り合いのイタリア人の先生の講習会に行く予定だった。

「講習会ための語学留学です。」と出まかせを言った。
かくして、卒業旅行と称したイタリア短期留学へ行くことになったのだ。

○●○アメリカからイタリアへ変更○●○

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アメリカへ行くつもりでエージェントに相談をしていて、学校もほぼ決定していた。エージェントはすでにその学校に連絡を取ってくれていたのに、私はエージェントに行き先の国を変えてくれと申し出た。

私の担当者は「え?!どうしたの?!何かあった?!」と突然の心変わりにかなり驚いていた。今でも思い出す、驚きとがっかりが入り混じった声だった。そりゃそうもなりますよ。

わたしはといえば「いやあ、なんていうか、イタリアのほうが体裁いいような気がして……」というワケのワカラン回答をしていた。

担当者はそんな私に腹も立てず「わかった!イタリアの学校はよくわからないけど調べてみるね!」と早速イタリアの語学学校に連絡を取ってくれた。

今から20年ほど前だからか、英語でのやり取りはなかなか大変だったらしい。
「返事をくれた学校がここだけだったの。フィレンツェだけどいい?」と担当者。フィレンツェでは有名な語学学校だった。
正直、わたしはイタリアであればどこでもよかったので「大丈夫です!」と即答した。

わたしの初めてのイタリアの都市はフィレンツェに決まった。

○●○生まれて初めてのイタリア・フィレンツェ○●○

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初めてフィレンツェの街を見た時の衝撃は今でも忘れられない。
本当に体が動かなくなるほど感動した。目の前に流れるアルノ川を見たときは、思考が止まって涙だけが出た。日本とは全く違う街並みや空気、匂い、音に心から感動したことは昨日のことのように思い出せる。
二十歳の感受性に感謝。

フィレンツェ・インパクトによるわたしのイタリアに対する第一印象は最高だった。☆5つで評価するなら☆10個はつけられるくらい。

フィレンツェで過ごした二週間は、あっという間であり永遠のようでもある。私の人生の中で燦然と輝く黄金のマイルストーンだ。

○●○ヴァチカン市国のサンピエトロ寺院○●○

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平日は語学学校に通い、2回来る土日はローマで1泊した。
フィレンツェからローマまでは新幹線のような早い特急電車で当時は2時間ほどだった。距離的には270㎞ほど。東京と浜松間よりちょっと遠いくらい。

ローマはフィレンツェとは違い、とにかくバカでかかった。そしてとにかく歩いた。延々と歩いた。フォロロマーノからコロッセオ、スペイン広場からサンタンジェロ城、さらにヴァチカン市国まで。

そして、歩きまくって着いたヴァチカン市国のサンピエトロ寺院。言わずと知れたローマカトリック教会の総本山。この教会もでかい!もう、でかい!広い!

サンピエトロ寺院の大きさはまさに「荘厳」という言葉がぴったりだった。その当時は日本語でも「荘厳」という言葉にピンとくることすらなかったのに、サンピエトロ寺院を見たときに初めて「荘厳」の意味がわかった気がした。

サンピエトロ寺院は大好きなカトリック教会の一つで、わたしはこの教会に救われたことがある。

それはサンピエトロ寺院に2回目に行った時のこと。
その時わたしは相当凹んでいて、なんだかとても疲れていた。サンピエトロ寺院にどうして行きたくて行ったのだった。

寺院の前に座り、何時間いたかわからない。気が付いたら、明るかった周りがすっかり暗くなっていた。

ただそこにいただけだったのに、「私は大丈夫だ」と思えたのだった。サンピエトロ寺院が癒してくれたと今でも思う。

○●○ミケランジェロのピエタ○●○

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わたしの愛するサンピエトロ寺院には多くの有名な芸術品がある。そのうちの一つがミケランジェロ・ブオナローティの彫刻「ピエタ」
サンピエトロ寺院に入り、すぐ右側にある超がつく有名な彫刻だ。

わたしはこの「ピエタ」が本当に大好きだ。「慈愛」という言葉を3Dにしたら、こうなるに違いない。3次元で最高の「慈愛」を表現した彫刻だと思っている。

当時の私は「ピエタ」の意味も分かっていなかった。あまりにも作品が素晴らしいとその意味を知りたくなるのは人の常。キリスト教についていろいろと調べてみるきっかけとなった作品だった。

○●○キリスト教への興味○●○

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イタリアへ行ってわいた大きな興味がキリスト教だった。
ミケランジェロの「ピエタ」もそうだが、キリスト教を題材にした芸術は星の数ほどある。

恥ずかしながら、イタリアへ行ってその事実に驚いてしまった。

○●○自分の宗教観○●○

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それまで日本で生活している中で、自分の宗教について考えることはなかった。お葬式は念仏を唱えるから仏教徒か?と思っていたが、その自信はない。では、わたしはいったいなんなのか?

ふむ、何物でもない

わたしに宗教はない。しかし、宗教的な価値観はある。

たとえば、どんなものにでも魂が宿っているという神道的な考え方や、悪者はいつか成敗されるというキリスト教にも共通する考え方。

信仰する宗教はないけれど、宗教的な考え方は持っている。なので、無宗教ともいえない。
日本に生まれ、日本で育ってきたこと意外は漠然としていると思ったのだった。

○●○日本人であることを考える○●○

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宗教がニアリーイコール価値観であること多いと、日本を出てから気づいたわたし。わたしは宗教観がなかったから、自分の価値観は一体なんだろうかと考えた。

八百万の神の民

出た答えがこれだった。真剣に考えて、これが一番自分にしっくりきている

神道を意識したことはない。でも、神道の教えはバッチリ染み付いている。どんなものにも霊があるから、どんなものも大切に扱う、この精神はアラフォーになったからこそ大切に思える精神だ。

昨今この「八百万の神精神」は海外のメディアで取り上げられるサッカーのサポーターのゴミ拾いと同じことだと、わたしは思っている。

『試合をしたスタジアムのため。次にスタジアムを使う人のため。』
サッカーのサポーターの方たちは、目に見えぬ何かや誰かのためにゴミを拾っている

海外では「素晴らしい!」と称賛され、真似する人達も出てきた。
これこそ日本の価値観だ、とスタジアムでゴミを拾うサポーターの方たちを見て思った。

相手が人でも物でも、その立場を考えて行動するという精神
これが自分の価値観だと考えている。

○●○自分のID○●○

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わたしは一体何者であるか。

おそらく考えていた日本人はたくさんいるだろうが、わたしは本当に考えたことがなかった。考える必要が今までなかったから。

イタリアに行ってイタリア人に会い、いつもいつも宗教を聞かれ、わたしは答えられなかった。そのたびに「わたしは何者か?」と考えることとなる。

さらに外国に行ったことにより、完全に外国にかぶれてしまい、変な発言と行動をしている日本人と成りさがった数年間。
「外国に行ったことのあるわたし」というIDは混迷を極めた

結局〈外国〉というものに依存しているだけで、そこには何もなかったからだった。

そんな中でたどり着いた「八百万の神の民」という答え。
つまり「日本人、えりゆ」ということ。

実はこれ、テキトーで大げさでうるさいイタリアが教えてくれた。
あなたはえりゆ。それ以外の何者でもない」と。

それ以外の何者でもないのであれば「何者かわからないのもの自分」。

つまり、IDとは、
自分であることを受け入れて、自分を認めてあげれば良い。
このことに気づいて、自分をよりよく生きることなのではないかと、今では思っている。



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