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Makaya McCraven - Universal Beings:Disc Review without Preparation

マカヤ・マクレイヴンの2019年作『Universal Beings』はNY、シカゴ、ロンドン、LAと分けた4部構成。このアルバムはこの年を代表する一枚であり、2010年代の重要作でもあると断言できる。

それぞれのセクションで、それぞれの地域に由来したメンバーとのセッションを行い、そこでは楽曲に関しても、現代のジャズの四ヶ所における地域性を示している。全てのセッションでドラムだけはマカヤが全て自分で叩いてて、それらの地域性や音楽性を的確に叩き分けて、溶け込んでいるのがまず驚異的だ。このアルバムでのマカヤの演奏を聴くだけで、マカヤのヴァーサタイルさやスポンテニアスさ、ハイブリッドな音楽性がそのまま反映されていて、マカヤの音楽性の幅の広さがよくわかる。

■ニューヨーク・セクション

NYのセッションではレアグルーヴっぽさや、サンプリング主体の90'sヒップホップ、そこから連なるNYの現代ジャズ、と言った音楽性がメインになっている。サンプリングソース的な文脈でのハープ奏者ドロシー・アシュビーやヴィブラフォン奏者ボビー・ハッチャーソンを思わせる演奏が聴こえてきたり、まるでレコードからサンプリングしたようなザラっとしてファットな音像が鳴っていて、その中でスネアがビシッと響いてるみたいなサウンド。

そこに現在のジャズシーンで注目されている新進のハープ奏者ブランディー・ヤンガーやヴィブラフォン奏者ジョエル・ロスを持ってきて、というセンスもいいし、モロNYストレートアヘッド界隈でオーセンティックなイメージだが、近年はひっそりとヒップホップ要素を入れた曲も発表しているベーシストのデズロン・ダグラスを持ってくるのも冴えてるし、今のシカゴのシーンでも最も面白い作品を発表しているチェロ奏者タミコ・リードの器用もハマっている。人脈が混在してるのが良い。

ここのセクションを聴いていると、『Universal Being』ではビートメイカー的に解体再構築したというよりは、地域性やスタイルをサンプリング的に集めて編んだような音楽になっていて、打ち込み感は限りなく薄く、かなりライブ的だ。その中で地域性や人脈の抽出のやり方と落とし込み方があまりに巧みでよく練られているのが聴きどころだ。マカヤはジャズ(やその周辺)の認識が深くて広く、客観的であることがわかる。

■シカゴ・セクション

という話で言えば、シカゴもジャズだけでも様々な文脈があって入り混じってる土地。ハードコアなアフロ・アメリカンたちによるAACMがあれば、シカゴ音響派コミュニティのジェフ・パーカーがいて、(ソニー・ロリンズとやってた)ボビー・ブルームがいて、(マイルスとやってた)ロバート・アーヴィングⅲもいる。そういったシカゴのミュージシャンを集めれば、NYとは全く違う音楽になるのは必然なわけだ。

そのシカゴ・サイドにトメカ・リードジュニアス・ポールのシカゴ人脈に混じってなぜかUKロンドンのシャバカ・ハッチングスがいるが、彼のオールドスクールで猪突猛進系の演奏が70年代とかのAACM周辺の、スピリチュアル〜フリージャズなサウンドを想起させる。それはシャバカの中にエヴァン・パーカーなどのUKのフリージャズ/フリー・インプロのシーンからの影響が入っているから、というのもあるだろう。シャバカがそんな演奏を聴かせる時はマカヤも思いっきりぶっ叩く時のジャック・ディジョネットみたいになったり。ディジョネットはシカゴ出身だ。

そうやって、各地域にあるスタイルを自分の演奏に関しても、共演者の選択に関しても、作編曲に関してもサンプリングして遊んでる感があるのが面白い。

■ロンドン・セクション

ロンドン・サイドはジョー・アーモン・ジョーンズヌバイア・ガルシアダニエル・カシミールテオン・クロスらのUKジャズの若手とのコラボレーション。本作の少し前に出た『Where We Come From (CHICAGOxLONDON Mixtape)』の発展形と見てもいいかもしれない。どんどん展開していくUSのジャズとは違って、展開しないミニマルな気持ちよさを活かしたぬるま湯ビートダウン多め。ただ、マカヤ・マクレイヴンが叩いてるとリチャード・スペイヴン的な人力テクノとも違うし、モーゼス・ボイドやユセフ・デイズあたりのカリブ海やアフリカ経由のリズムとも違う太さと重さと低音の低さ、そして、US的なリズムで後ろに引っ張られてる感じがあり、UKの面々に馴染みつつもどこか異質になっているのがいい。

■ロスアンゼルス・セクション

LAサイドはカルロス・ニーニョ系譜のアンビエント〜ニューエイジ的なサウンド。弱音・微音、アタックの弱い音色とロングトーンを絡ませたインプロで、最近だとサム・ゲンデルあたりの音楽にも近い。ジェフ・パーカーミゲル・アトウッド・ファーガソンジョシュ・ジョンソンアンナ・バタースがセンス良く音を漂わせる。

LAのサウンドを西海岸ヒップホップではなくて、ヒッピー・カルチャー系譜のニューエイジからのジャズとしてカルロス・ニーニョとミゲル・アトウッド・ファーガソンの文脈で表現するマカヤの趣味の良さ。

LAセクションはサイケデリックな長尺セッションではあるけど、ひたすらループしている時間軸長めのミニマルさなので感覚的には最もサンプリング感がある。それにしてもここでのやわらかいタッチのマカヤ・マクレイヴンのドラミングとベースのアンナ・バタースの組み合わせが見事でふわっとチルアウトできるのもさすが。マカヤの叩き分けの巧みさがここにも。

これを聴いていたら、2018年の来日時に見たサム・ゲンデルのトリオの演奏を思いだした。それはまさにここでのLAセクションの音響感で、即興演奏の小さい音の中から音色と響きだけ取り出して、ルーパーで反復させてレイヤーしながら、その場で次々に作曲するようなものだった。これってタウン・アンド・カントリーなどの90-00年代のシカゴ音響派とも通じる部分があるのかもしれないと思うと、LAのジャズ・コミュニティからこういう感覚が出てきてるの興味深い。

といった感じで、アルバム全体像としてはボリューム的にも、コンセプト的にも、サウンド的にも壮大ではある。ただ、個々のセクションからは、DIYさがあって、むしろ身近に感じさせるのがこのアルバムの特徴でもある。それは緻密に作り込まれたというより、ドキュメント感があるのが理由かもしれないと思う。大きな一つのトレンドがあるというよりは、世界中の様々な地域やシーンで、それぞれに別の文脈が紡がれている今のジャズ・シーンをマカヤなりに俯瞰して、その特徴的な部分を切り取って、再編集して提示したもの、としても聴くことがある。つまり、このアルバムにはマカヤのメタな視点、もしくは批評的な視点みたいなものが宿っているとも言えるだろう。その際に、ドラムだけはマカヤが叩いていて、そのドラムが中心にあり、それが座標軸のように機能していて、それぞれの地域の音楽性のコントラストを際立たせているのも意図的なのだろう。

■ライブ性とエディット

このアルバムは全てインストで全体的に即興濃度が高い。かなり抽象的な部分も多いが、ここで起用されているミュージシャンは即興演奏多めのスタイルでやっている人が多いのもあって、クレジットだけ見ても、そういった音楽になるのは一目瞭然だ。作り込むのではなく、そのセッションの場で起こった演奏を収めているという部分でも、本作はドキュメント的だと言える。そして、その抽象的な即興演奏をプロデューサーとしてのマカヤがエディットして再構成している。
演奏を素材としてサンプリングして、それを元に別の音楽を構築するヒップホップ的な作業ではなく、即興演奏を切り取ってループさせたり、別の場所に組み込んだりして、ストーリーを編み直すような70年代のテープ・コラージュ的な作業をして、バンド感はそのまま残している。それはジャズの文脈で言えば、現代版のマイルス・デイヴィステオ・マセロ手法と言えるようなものだ(ロックの文脈ならカンやファウストなどのクラウトロックにも接続できるかもしれない)。抽象的なものを抽象的なままの状態を維持しつつ自然な形で編集しているとも言えるし、即興演奏の抽象性があるからこそドキュメント性を維持したままで自由な編集を施すことが可能だったとも言えるかもしれない。よくよく聴くといつの間にか一部分がループしていたり、突然跳躍的な展開があったりして、実は心地よさや意外性はデザインされたもので、決してただのセッションではないのがわかる。

そういった手法を用いたうえで、クエストラヴクリス・デイヴ系譜のヒップホップのビートを人力のドラムに置き換える奏法もお手の物のマカヤは、そんなドラミングをこのアルバムでも聴かせてくれる。その人力のビートが、自身のドラミングのフレーズをカットアップしてループさせたブレイクビーツと入り混じっていて、どこまで人力で、どこまでが後でエディットされて作られたビートなのかの区別がつかないまでに混在している。それはここに参加しているミュージシャン達も同じだ。そういったザ・ルーツ以降、ロバート・グラスパー以降のヒップホップのバンド化の文脈もここには入っているが、そこを主題にせずに、むしろトータスアイソトープ217(やレディオヘッド)などのプロトゥールスの導入により緻密で大胆な編集を武器に音楽を更新した90-00年代のポストロックの文脈に連なっているのがこのアルバムの新しさになっている。そういう意味では、マカヤがジェフ・パーカーと繋がったのも納得だし、彼の音楽はシカゴに根付くものの延長にあるもの、なのかもしれない。

ちなみに今、マカヤに刺激を受けているのはジェフ・パーカーで、ジェフはマカヤが所属しているからということでInternational Anthemに自分から売り込みに行ったという捻じれた関係になっているのもまた面白い運命だなと思う。International Anthemはマカヤやジェフ以外にも、ベン・ラマー・ゲイボトル・ツリー、UKの新鋭エマ・ジーン・サックレイなど、生演奏とエディットが入り混じる作品を作るアーティストが多数所属している。「International Anthemというシーン」みたいな視点からもきっと見えてくるものがあるだろう。

(ポストロックという部分ではピアニストのアーロン・パークスのプロジェクトのLittle Bigや、ギタリストのマシュー・スティーブンスによる『Preverbal』あたりのレディオヘッド『Kid A』以降の文脈をバンドで解釈する現代ジャズ・アーティストと比べて聴いても面白いのかもしれない。

また、マカヤのドキュメント感=ライブ感=生っぽさとエディットの関係性は前々作『In The Moment』でも既に見られたもので、前作『Highly Rare』ではかなり完成されていた部分なのがわかる。プロデューサーとしてのマカヤの作家性はここにあるのかもしれないと思う。

2020年にはマカヤはUKのXL Recordingsと契約して、ギル・スコット・ヘロンのトリビュート盤『We’re New Again - a Reimagining by Makaya McCraven』を発表した。XLといえば、レーベルのボスのリチャード・ラッセルがEverything Is Recorded名義でも活動していて、彼のアルバム『Everything Is Recorded By Richard Russell』はサンプリングをベースにしたサウンドに、様々なゲストが加わったものだ。今後、マカヤがXLとまた絡むのかはわからないが、おそらくリチャード・ラッセルはマカヤの新しさを誰よりも理解している人なのではないかと僕は予想している。

2020年にはアメリカ人ドラマーのカッサ・オーバーオールが『I Think I'm Good』で生演奏とビートメイクとエディットに関して、これまでの文脈を押さえつつ、それらを踏まえた上での新たなチャレンジを提示してみせた。これはマカヤに次ぐ作品として評価を受けるべきだと僕は思っている。

ヒップホップのビートを生演奏するドラマーでもなく、ビートも作るドラマーでもなく、その両方に加えて、ポストロックにも通じるポストプロダクションが融合した「マカヤ・マクレイヴン以降」みたいな文脈はこれから増えてくるような予感はある。個人的にはこれからどんどん増えてくるとジャズ・シーンはますます面白くなるような気がしている。

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