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#1-2 生態心理学

 中岡武は、胸に手を当てて、深く深呼吸をした。

心臓の鼓動が速くなっていくのを感じたからだ。誰もが知る有名選手の引退会見を、読書の合間にスマホで見終えた後のことだった。金丸の会見のテロップに記された「町田大学大学院へ進学」の文字が、目に残っている。中岡は当惑した。思ってもいない展開だ。代表戦がある度に、類まれなボール奪取能力に魅了された名選手が、自分と同じ大学院への進学を表明したのだ。だが、それだけではない。金丸の口から発せられた言葉は、中岡にさらなる衝撃を与えた。
 「大学院では生態心理学を専攻します」
 この大学院には生態心理学の研究室は、平沼研究室の1つしかない。中岡は、昨日、合格通知を受け取ったばかりだった。


 壇上に立つ金丸の姿を見て、中岡の気持ちは高揚した。入学式に来た今でも、にわかに信じたい光景だった。まるでサプライズ登場したゲストを眺めるかのように、金丸の挨拶に聴き入った。
 入学式を終え、新入生は平沼研究室に集められた。中岡は、教授の平沼雄太や先輩への挨拶を済ませ、円形に並べられた席に着いた。何度か研究室訪問をしていることもあってか、初顔合わせのような堅い雰囲気は感じられなかった。
 「みんな揃ったかな?」平沼が部屋の奥の机から立ち上がりながら尋ねる。
 「金丸選手が来られていないですね」修士2年生の河村がこたえた。皆の表情が少しこわばった。
 「生徒に囲まれてるのかもしれませんね。もう少し待ってから始めましょう」平沼がそう言って再び席へ戻ろうとした時に、研究室の扉が開いた。
 「遅れてすみません。本日からお世話になります、金丸健二と申します」と、一般社会で「爽やかな」と形容されそうな挨拶で、筋骨たくましい男が入室した。額は少し汗ばんでいた。
「遅れていませんよ?コーヒーを淹れていたところです。良いタイミングで登場して下さいました。河村さん、皆さんにお出ししてくれますか?」平沼は柔らかい口調で言った。

 挽きたての豆の香りが研究室を包みこむ。中岡は、河村から受け取ったコーヒーを椅子のドリンクホルダーに入れ、一度深く深呼吸をした。隣には金丸が座っている。
 「初めまして。いつも試合で見ていました。よろしくお願いします」椅子から中腰で立ち上がり、金丸の方へ手を向けた。金丸はすぐに立ち上がり、中岡に目線を合わせ、中岡の手を取り言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。不勉強なので、色々と教えて下さい」
「教えて下さいだなんて・・・私も、色々と経験談をお聞かせ下さい」中岡が言うと、金丸は柔らかい表情のまま会釈をした。目尻のあたりに笑い皴ができた。この距離で話したから気づけたのだと、中岡は妙に嬉しい気持ちになった。

 全員が席についた。中岡の斜向かいに平沼が腰を下ろし、平沼の左右には修士2年生の河村と松田が座った。どちらの先輩も中岡からすれば5つほど歳下だが、年齢の割には落ち着いた雰囲気に見える。大学院生という先入観があるからだろうか。右隣には金丸がおり、金丸の横にはもう一人の同級生である戸倉が着席した。研究室訪問の時に話をしたが、戸倉はいわゆる内部進学組らしい。平沼教授のゼミには学部生の時から在籍していた経緯もあってか、修士2年生と同じような落ち着きが見えた。

「改めまして、こんにちは。平沼です。新入生の皆さん、入学おめでとうございます。今年は内部進学の戸倉くんを含め、3名がわが研究室に入って下さいました」平沼は胸の前で拝むように手を合わせながら話した。
「皆さんはご存知でしょうが、元サッカー日本代表の金丸さんが仲間になりました。あまりに有名な方なので、このことに触れずに話を進めるのは不自然かと思いまして、先にお話致します。皆さんに理解していただきたいのは、年齢や経験は違えども、金丸さんも皆さんと同じ大学院生だということです。様々な考えをお持ちになり、この研究室の扉を叩いたという点において、皆さんとまったく同じ立場なのです。先ほど河村さんは、『金丸選手』と呼ばれていました。ふいに出てしまった言葉でしょう。ただ、本日からは、金丸さんとお呼びすることにしましょう。彼の経験には最大限リスペクトをし、仲間意識を持って研究を進められたらと思います。これも何かのご縁なので、金丸選手にも・・・金丸選手って言っちゃいましたね・・・」緊張と緩和を巧みに使い分ける、平沼教授らしい語り口調だった。皆の表情が和み、緊張が解けたところで、金丸から自己紹介を始めた

 全員が簡単な自己紹介を終え、平沼より、大学院生としての心構えについて、「大学院は勉強する場所ではなく、研究をする場所である。その意味をよく考えて2年間を過ごしてみてください」との言葉を受けて、三々五々に研究室をあとにした。


 中岡は大きな背中を追いかけた。歩く速度が速い。急いでいるのか?声を掛けるのをやめようか?中岡は内なる声を聴きながらも、初めては一度きりしかないと心の中で言い切った。
「金丸さん」
「中岡さん。お疲れ様です。今日からよろしくお願いします」金丸が振り返って言った。
「金丸さん、今から少しお時間ありませんか?金丸さんのお話をお聞かせいただけないかと思いまして」
「お声がけいただき、ありがとうございます。申し訳ありませんが、この後も仕事の打ち合わせが入っていて・・・少しお待ちくださいね」そう言って金丸はスマホに目をやり、どこかへ電話を掛け始めた。短い会話を終えたあと、中岡の方へと振り返り、
「1時間ほどでしたら何とか大丈夫です。初対面の機会なのにゆっくりお時間取れなくて申し訳ありません」と頭を下げながら言った。
「いえいえ、こちらこそお忙しい時に申し訳ありません。スケジュールをずらしていただいたのなら忍びないので、またの機会にでも・・・」中岡が両方の掌を金子に向け、左右に振った。金丸は笑顔でこたえた。
 「大丈夫です。こちらこそ、気配りが足りなかったこと、お詫びします。お話を聞かせて下さい」
 なんて謙虚な人間なのだろう。画面を通して伝わる印象よりも、さらに器の大きい様子の金丸の姿に、中岡は只々感銘を受けていた。

# 1-3 時計   https://note.com/eleven_g_2020/n/ncf6b8b8586ef

【著者プロフィール】

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映画監督を志す小説家。日本が初出場を果たした1998年のフランスワールドカップをきっかけにサッカー強豪国の仲間入りを果たすためのアイデアを考え続けている。サッカーとテクノロジーが融合した物語、 11G【イレブンジー】は著者の処女作である。

Twiiter: https://twitter.com/eleven_g_11


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