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note版あとがき -Liebe Grüße,

この卒論が劇的に動いたとき、私はドイツ・ケルンに滞在していました。そして、生きるか死ぬかレベルの壮絶な食あたりを起こしており、ホステルの部屋のトイレで吐きまくって挙句トイレを詰まらせました。いきなり汚い話ですみません。
どうやら食あたりの原因だった夕食の肉の脂身を出し、胃の中が空っぽになるまで吐き、ようやく体が楽になるのを感じてそのままベッドに倒れこんで気づいたら朝でした。

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(私を殺しかけた肉です)


目を覚まして、今が朝で、そして自分はどうやら生きていることを確認し、とりあえず旅行にも持ち歩いていたノートパソコンを開いてメールボックスを開くとその一通が届いていました。

「演出家にあなたのことを話したら、彼もあなたと話してもいいとのことです。来れますか?」

当時、グラーツ歌劇場のドラマトゥルクであり『エレクトラ』にも関わったBernd Krispin氏からのメールでした。
まず目を疑いました。何度も読み返し、自分のドイツ語がきちんと正しく理解できているか、本当にこれは「会って話せる」ということなのか、何度も確かめました。同じくドイツに滞在していた友達に電話をしてメール文面を読み上げて、「これは会ってもいいってことでいいやんな?!」と念押ししたことも覚えています。
まさかこういう展開になるとは思っていませんでした。このときの私は卒論について結構行き詰まっており、ゼミの先生が主催するベルリン研修旅行についていったはいいものの、卒論作業はうまくいっていませんでした。当時の『エレクトラ』を取り上げた批評記事の収集はなかなか進まず、グラーツ歌劇場の制作担当の方に何度もメールするものの返信はなく、『エレクトラ』関係者を見つけられないか色々な人に頼んでみたり、そしてケルンに出発する前にKrispin氏の連絡先を見つけ、卒論のことを説明した上でもし資料があればいただきたいという、何度も書いた文面で、藁にもすがる思いでメールしていました。
私は資料が欲しかっただけでした。それが一足飛びに「演出家本人にインタビューする」という展開になり、驚きと喜び、興奮で頭は完全に混乱していました。

この日、私はケルンからベルリンへ戻る予定でした。帰りのICE(ドイツ版新幹線)の時刻まで余裕があったので、駅前のケルン大聖堂に立ち寄りました。
日曜日でした。大聖堂ではミサが開かれていました。
隅っこに座り、司教のお話を内容もわからないままなんとなく聞いているうちに今度は賛美歌を歌うターンになり、一応立ち上がるものの歌も何もわからない私は周りの人たちが歌うメロディをただ聴いていました。
聴いているうちに、涙が溢れてきました。
その日は快晴で、大聖堂の中にも陽光はステンドグラスを通してまっすぐ柔らかに差し込み、肌寒い日でしたが暖かさがありました。
私はキリスト教徒でもないし、教義のこともわかりません。けれどあのとき、頑張りなさいよと言われたような気がして、よかったねと言われた気がして、私はぼろぼろと泣いていました。
昨晩死ぬほどの食あたりに苦しめられてもう二度と来るかケルンと思っていたことも全部忘れました。ケルンはいい街です。

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私がもう一つ幸運だったのは、インタビューに指定された日に、大学でドイツ語を教えており学生時代の専攻は演劇学だったというオーストリア人の先生がちょうどグラーツに滞在していたことでした。
即その先生に連絡を取り、インタビュー内容について相談に乗ってくれと頼み込んで2人でカフェでおよそ3時間、先生の仕事の愚痴も含めて延々と話し続けました。

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当日のことを想定していくうちに、これはネイティブが一人いないと難しい内容だから僕も一緒に行くよと言ってくれ、また幸運が一つ重なりました。
「この日は別の予定があるんだけど、絶対こっちの方が面白そうだからこっちに行く」
オーストリア人はいい意味でとても適当です。

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 (カフェで食べたシュトゥルーデル)

当日、グラーツの中央広場で先生と待ち合わせ、またもカフェに入って最後の打ち合わせをし、歌劇場へ向かいました。
従業員用入口で二人で待っていると、最初にKrispin氏がやってきてものすごく早口で挨拶をされすごい力で握手をされ、そして演出家Erath氏は遅刻を遅刻とも思っていないような顔で遅刻してきました。ぼろぼろの皮ジャケットにダメージジーンズという、学生みたいな格好をされていたのを覚えています。
Krispin氏は私たちを個室に案内し、「じゃあ後はよろしく」とあっさり出て行きました。
私たちに与えられた時間はきっかり1時間でした。そうして得たインタビューを基に書き起こしたのがこの論文の第3章であり、結論よりも核たりえる、誰にも真似できない内容になったと思います。


この第3章こそが評価され、学部でも優秀卒業論文賞に選ばれる決め手になったのだろうと今でも自信を持って思います。当時の記事や資料を収集することも大変な作業ですが、演出家本人に会ってインタビューするというのはもはや運の問題です。私は本当に運が良かったと思います。
けれどその運を掴むのにもいろんな準備があって、いろんな人に相談して、諦めずに歌劇場にメールを打ち続けたからこそ訪れたものとも思います。運は、何も準備していない人のもとにいきなり降ってはこないものです、きっと。

この論文を掲載するにあたり改めて目を通し、note用に調整を加えていく中で、この論文に当時の私がどれほどの労力と気力をかけて、どれほど真摯な日々を過ごしたのか、懐かしく思うと同時にとても羨ましく感じました。
これだけ夢中になれるテーマに出会えた私は本当に幸運な学生だったと思うし、このテーマを得るには留学という、学校や両親の支援がなくては決してできなかった大きな行為がありました。
この論文を書いたのは確かに私です。ですが、あらゆるところからの布石がなくては生まれなかったものです。それを思うと、自分がいかに恵まれていたかを深く感じずにはいられません。

これは大学生までの私の集大成であり、大きな区切りです。
私は、今の自分のことはさておいて、この当時の自分のことを今でも誇りに思い、少なからず今の生活の糧としています。
前書きで、この論文が今の学生の方々に何か資するものがあればと書きましたが、それ以前に、これは私がかつて生きた証で、それをどこか確実なところに残しておきたかったというのが本音だったのだろうと全文を掲載し終えた今、ようやく認めることができます。

これは私が生きた証です。
この先、生きた証となり得るものをどれほど生み出していけるのか全く想像もつかない、もしかすると永遠にもう生み出されるものはないかもしれないけれど、生きている限り、何かを残していくことに努めていこうと思います。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
暇つぶしにしては面白かったな、くらいのお気持ちで十分嬉しいです。

2019.11.10 Chihiro Urashima

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(2013.9 グラーツ歌劇場の一室にて、Erath氏と)

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