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ELEKIBASS始めました

話は前後しますが、東京で初めてCLUBイベントに行ったときに、自分の大好きな曲が大音量でかかり、みんな踊る姿を見たときに、いままでイヤホンやヘッドホンで音楽を聴いていた自分の音楽の価値観みたいなものが、一気に広がったんですよね。
頭で考えれば至極当然のことですが、見ると聞くでは大違い、というやつで、「音楽で踊る」、というシンプルな現象を目の当たりにして感動したものです。
そして、自分でもDJをやりたくなり、家で音楽鑑賞する、という目的以外でもアナログレコードを買うようになりました。そして、一番好きに思いどうりにDJができるようにと、イベントの主催(オーガナイザー)をやってみたのです。それが前回のくだり。

何回かのDJイベント開催するうちに音楽友達もできてきて(ここで、今も交流がある、現某音楽会社の吉田くんとも繋がります、彼もDJイベントを主催しており一緒に企画やろうよと、いつの間にか仲良くなってた。)、そうすると、もう一個の欲求、ライブをやりたいという、気持ちがむくむくと湧き出してきます。

バンドに関しては、大学の音楽サークルに所属して、コピーバンドを最初はやっていまして(オアシス、レディオヘッド、サニーデイ・サービス、ホフディラン、フリッパーズギター等々やりました)、そのうちサークル内でライブをやるうちに、オリジナルを作りたくなってきて、無理やりコピーバンドのメンバーを誘ってオリジナルバンドを組みます、ちなみにこの時組んだバンドが「ELEKIBASS」。バンド名をみんなで考えた、向ヶ丘遊園の居酒屋の光景は今でも覚えております。ちなみに名前の由来は、eastern youthのアルバムのBASSのクレジットが、「エレキベース」だったことに由来します。
和製英語の「エレキベース」という言葉になんかピンときたのですが、メンバーも特に反応なく、他の候補がなかったので、まあいいか、ぐらいで決まりました。いま思えば温度低い始まりだったな、、まあ今も変わらないかもですが、、

最初コピーバンドのボーカルがそのままボーカルでいたのですが(磯野くん、元気かなw)、何度かのスタジオリハーサルにはいった結果「やっぱりオリジナルは特にやる気がないかな、、」、とのことで、解散しかかり(なにもやっていないのに!)じゃあ、言い出しっぺの自分が歌う、ということで始まります。

当時(1997〜1998)は、ライブハウスでライブをやるにはまず、デモテープ(文字どうりカセットテープにオリジナル曲を録音したやつ)を持っていき、お昼のオーディションライブに出演する必要がありまして、そのライブで、ブッキング担当の人に、あーだ、こーだ言われて、オーディションに受かれば夜の部に出演できるのです(まあ、仕組みは大きくは今も変わらないですかね、しかしお昼のオーディションとかは聞かなくなったかな〜)

僕らの場合、下北沢のGARAGEと下北沢屋根裏、新宿JAMあたりが名門&登竜門で、まずは下北沢GARAGEにデモテープを持っていき、初ライブをお昼にやらせてもらいました。

チケットのノルマとかあるので大学の友人に無理やり遊びにきてもらい、ブッキング担当の人に「SONIC YOUTH」とか好きなの?と言われたのをなぜか鮮明に覚えております。(今思えば、きっと僕らのライブがよくなかったんで、SONIC YOUTHとか好きでしょ?とか言っとけばまあ波風立たないでしょ的な気を使ってもらってたのかな、、とか思ったりもします)

ちなみに、このときバンドの編成は、僕とドラムは同級生の菅原くんに、ギターに同じく同級生梨本、サポートに先輩のベーシストの4ピース。打ち上げに下北沢の陣太鼓 (づんでこ)で4人で飲みながら、反省会がはじまり、先輩サポートベーシストに「このバンドに未来を感じない」と言われました。このとき陣太鼓 (づんでこ)の親父さんの名物の塩を降るときの柏手の音が、パーン!パーン!と鳴り響いていたのを今でも覚えています。

*Drの菅原潤 大学時代一番一緒の時間をすごし、2回目のアメリカツアーまでELEKIBASSにつきあってくれた男

このオリジナルバンド初ライブを経て、自分の「わざわざ作りたいオリジナルの音楽」っていったいなんだろう?ということと向き合うことになりまして、一旦、ドラムの菅原くんと、僕だけのユニットということでELEKIBASSはライブをやらずに曲作り、というかオリジナルのコンセプト探し(自分探し、みたいなw)時期に突入、ここで改めて、自分はどんな音楽が好きなんだろうか?と、まずは自分のレコード棚と向き合うと、US/UK インディのレコードが多いいことに気がつきます。

その中でも、アメリカのインディ・ ポップ集団“エレファント6”のサウンドが特に好きで、特に首謀者のThe Apples in stereoのロバート・シュナイダーの存在が自分の理想じゃないか?ということになり、じゃあまずは試しにThe Apples in stereoのコピーバンドをやってみようと、同じくUS/UK インディが好きで、よく新宿のRough TradeやVINYL、WAREHOUSE、渋谷ZEST、MAXIMUM JOY あたりを放課後よく一緒にレコードをさがし歩いていたレコード仲間の後輩の亀田JPをギターに誘い、同じく後輩の淵沢をベースにThe Apples in stereoコピーバンドのライブをやってみたのです。

勝手な、やってみた感想ですが、どこか自分にフィットしたのを感じて、The Minders/of montreal/The Olivia Tremor Controlと“エレファント6”まわりのバンドの曲のコピーをやり、同時にオリジナル曲も2曲(ダニエルという曲とジョンストンという曲、そう、あのダニエル・ジョンストン(Daniel Johnston)から曲名拝借しました、、単純ですねー自分)作り、コピーとオリジナルの入ったデモテープを作り、再度ELEKIBASSとしてのライブを再開し始めるのです。*しかし「わざわざ作りたいオリジナルの音楽」っていったいなんだろう?とか向き合った割に、出した答えのオリジナル曲の曲名がダニエルという曲とジョンストンという曲という、なにがなんだか、アイデンティティの薄いことw、と、われながら書いてて思いますが、実際、この重いと軽いの中間地点みたいな”ちょうどいい”感覚がいま改めて、自分が「わざわざ作りたいオリジナルの音楽」なんだなと思います。

*ELEKIBASSの初めてのデモテープ、3曲目の「YEAH YEAH YEAH」はThe Mindersのカバー

一方でCLUBイベントを主催、一方でオリジナルのバンドELEKIBASSの活動、ああ、やっとここで、2つの動きが一緒になることになるのですが、「せっかくだし、CLUBイベントで、ELEKIBASSのライブやればいいじゃない?」となります。

しかし、ここで問題になるのがライブハウスとクラブは、機材が違います、いわゆる、アンプやドラムとかがクラブにはないのです。もっというとクラブにはステージもモニターも、そもそも演奏する前提の場所ではないので、マナーも違います。

じゃあ、どうすればいいのか?無理やり、アンプとマイクとドラムとかの機材を持っていき、フロアで無理やりライブをやればいいじゃないか、となり。それを決行。奇しくものちに回るアメリカドサ回りツアー

(アメリカのバンドは、アンプやドラム等の機材は基本、自分たちで持ち込み、2バンド、3バンドと出演する場合も、全バンドドラムやアンプは入れ替えになるのです。(日本は基本、同じドラムセットやアンプを使いまわします。)そしてステージや照明とかがないようなBARとかでライブがあることも日常の中では珍しくないのです)

の予行演習?というか、同じ答え?にたどり着き、経験を重ねて行くことになります。思い出深いのが渋谷の百軒店にあったSUGAR HIGHというお店で深夜の外国のお客さんばかりの中でのライブが演奏は最低だったのに最高に盛り上がり、一つの価値観だけが音楽じゃないんだな、ライブっておもしろーい!と思ったのが今でも覚えています。(このお店を紹介してくれたのが現・toddle、当時・SWARMS ARMの小林愛さん)

まあ、とはいっても、いい環境(きちんとしたステージがあり、音の環境もバンドに適しているような)でのライブももちろん興味あるので、そこで出てきた次なる挑戦が、、、、

「下北沢CLUB QUE の オールナイトイベント の主催」をしてみたい

ということになりまして、、、

クラブ文化とライブハウス文化を併せ持つ会場への挑戦、、ということになるのです。ここで、前出したクラブイベントを主催していて知り合った友人、吉田くんがキーパーソンになってくるのですが、、、

なぜ「下北沢CLUB QUE」 の 「オールナイトイベント」 の「主催」なのか?

こちらはまた次回に続きます。




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