司馬遼太郎の文体で書かれた夢を見る

昔からはっきりした夢を見るし、その夢をいちいち反芻するし、明晰夢を見ることも多い。
まったく夢を見ないという人に比べればずいぶん夢を見る方(覚えている方?)だと思うんだけど、それにしても一際妙だと思われそうなのは、「文章で書かれた夢を見る」ということです。

人によって夢の見え方って色々だと思うんだけど、たとえば色がついているとか、音があるとか、匂いや味を感じるとか、痛みがあるとか。
私はほとんどの夢はカラーで、音も匂いも痛みもあるけど、その匂いや痛みというのは「『匂いを感じた』『痛みを感じた』と認識する」だけで、実際そういう感覚があるわけではない。と思う。
本当に痛い時は、現実で壁に膝をぶつけたりしているので、どう判断していいのかわからん。

で、そういうのとはまったく別に、文章で書かれた夢を見ることがある。
「小説を読んでいる夢を見る」というわけではなく、夢の画面に、文字と、それが書かれた紙しか表示されないということです。

なぜか夢に書かれた文章の文体は、毎回、絶対に司馬遼太郎です。
司馬遼太郎の小説が表示されているというわけではなく、あくまで文体が司馬遼太郎なのです。

司馬遼太郎の本を読んだ夜は司馬遼太郎の文体の夢を見る、というのならまだ少し理解できそうなんだけど、特に読んでいない日も、文章で書かれた夢は司馬遼太郎の調子です。
司馬遼太郎はとても好きな作家の一人ですが、飛び抜けて一番好きというわけではないので、本当になぜなんだろうか。

司馬遼太郎の小説の態で書かれる夢だけど、痛くなくても「痛い」と認識しているように、たとえばだけど「奈穂は、朝食を食べた」と書かれていれば、夢の中で朝食を食べたということになる。
現実で小説を読んだ時のように、その朝食が洋風であるか和風であるかまでは書かれていなくても、何となく「きっと卵焼きだろうな」とか「納豆とご飯であろう」と想像して、夢の中でそれを食べたことになります。

文章は三人称で書いてあります。なので私の名前も書いてあります。
夢自体が小説なんだけど、夢の中でその小説を読んでいる私の意識もまた、存在しています。
読者である自分の存在に気づいたと同時に、「あ、また司馬遼太郎の文体で書かれた夢を見ている」と気づきます。気づいたまま夢を見続ける――というか、小説を読み続けます。

ちょっと話は逸れますが、私は自分でも小説を書く人間なんだけど、お話を考える時、言葉を使っていません。
そもそも「お話を考える」という作業自体が省略されていることが多くて、何かこう、形のないもやもやしたイメージの状態で物語が生まれて、それを言葉に変換していく形で、自分以外の人にも理解できるようにするのが、私にとっての「小説を書く」です。

小説を読む時はその逆の作業をしているようで、誰かが書いた文章を目で見て頭に入れる間に、言葉がイメージに変換されます。
(でも場合によって、文章を画像としてそのまま覚えて反芻して楽しんだり、映像化されたのを再上映したりもするので、一概にイメージだけで受け止めているわけでもない)

同様に、文章で書かれた夢を見る場合も、「視覚で文章を追いつつ、書かれている文字数よりもはるかに膨大な情報量を得ている」状態です。

なので夢で読んだ小説の文字数は大した量でもないのに(だいたい文庫で見開き二ページ分しかない)、起きてから反芻すると長い夢を見たような気になる。
文章では
「奈穂は、朝食を食べた」
だけど、認識としては、
「奈穂はいつものように昼少し前にベッドから起き出し、パジャマのまま着換えもせずに、食器棚に入れてあるパンを取り出して焼いて、バターをつけて、チーズを載せて食べた。ゆうべの残りのコーヒーもあたためなおし、牛乳と蜂蜜を加えて一緒に飲んだ」
くらいの受け止め方をしている。

こんな感じなんだけど、同じように、文章で書かれた夢を見る人って存在してるのかな。
周りの人には一人もいなかった。
もし同じタイプの人がいるなら、誰の文体なのか聞いてみたい。

あなたの夢は誰の文体ですか?

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