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排雪作業員という立場から感じる全体性

冬場の仕事の一つであるJR北上線ほっとゆだ駅構内の排雪作業が始まっています。列車と列車が通る間の時間に駅構内に溜まった雪を手作業でホーム内にある流雪溝に雪を捨てていくという作業です。中々入ることのできない駅構内での作業と、作業員である地元の方々との触れ合いが楽しいです。ある意味こういう日雇い労働のような仕事は自由に生きている方も多く、こちらが心を開いていると新しい出会いと発見があったりします。

2人目が産まれてから妻子は妻の両親のところにおり、少しさびしいですが、雪が多い西和賀での暮らしを考えると、非常に助かる面も多いです。

一方私は人生初の一人暮らしをしており、雪と戯れながら、この雪深い地域でいかに暮らしのコストを抑えつつ楽しく生きられるかというチャレンジをはじめました。

その一つがシェアランチという取り組み。今年は花巻大迫でぶどう農家をしている鈴木寛太(キャンタ)も冬の出稼ぎ労働に来ており、ハイデックのいる鳳鳴館で共同生活を送っているわけですが、こういう労働作業の一番の楽しみでもあるランチタイムにそれぞれ1品持ち寄りで何か作ってくるというシェアランチを始めました。

鈴木寛太

ハイデック

だいたい役割は決まっていて、ハイデックはご飯と味噌汁、キャンタはサラダ、そして私は卵焼き。最初は卵焼きがぼろぼろだったりサラダの野菜が大きかったり、ぎこちなかったそれぞれの役割分担も慣れてきて楽しい時間になってきました。

卵焼きを作るのが毎日の日課に。少し工夫をしたり変化させてる。

その中でも面白いのは、3人だけの量じゃなくてちょっと多めに作ってきて、それを部屋の他の人にシェアするということです。他の方はだいたいカップラやお弁当を持参する方が多いのですが、ちょっと多めに作った1品を「いかがですか?」と渡します。リンゴとかも部屋の人数分毎日持ってきて食べたいとも言われていないのに「食べませんか?」と渡す。「いつも申し訳ないね」という会話が生まれ、そこから話が弾んだりします。

昔ながらのちゃぶ台を囲みながら、今ではあまり見ることが少なくなったと思われる光景を再現するととても豊かな気持ちになります。実際、“雪かき”という労働にも張りが生まれ、仕事に行くのはとても楽しいです。

いい感じのちゃぶ台があったから家から持ってきた。

ずっと小さい頃から雪かきが好きでしたが、多分手で雪をかくという行為が好きなんだと気が付きました。機械でやれば数十分で終わるところをその何倍も人や時間をかけて払うという行為。空から降ってきてやがて消えてしまうものを毎日同じ場所で同じ動きをして払う。おおげさかもしれないけど、大地との繋がりを強く感じる瞬間があり、遠い春を夢見ながら、心はもう小躍りしているんです。

こういう仕事はJR◯日本という大きな会社があって、山手線とかを利用しているお客さんからの売上があって、我々にまで仕事とお金が回ってきます。資本主義の観点から言えば労働力という点でどちらかといえば末端の方にいるのだと思います。でもだからこそ、そこから感じ取れることも多く、どこまでも続いていきそうな線路を見ていると、全体性(やりがい)を感じることが刹那的にあります。いわゆるエッセンシャルワーカーで、そう思うこと自体がもしかしたら搾取されてる側の考えなのかもしれませんが、こういう作業をしていると身体の中にふつふつと湧き上がってくる感情も一方であり、労働をすればするほど絶対に搾取されないものが心にも身体にも染み付いてくる感覚を覚えます。

その表現の一つが、作業途中の和気あいあいとした一服の時間だったり、シェアランチの時間だと思うのです。

多分誰も搾取したいと思って搾取しているわけではなく(本当はいるのかもしれませんが)、そういう資本主義のような仕組みにいると、役割が決まってきて、客観的に見ると搾取されているようにも見えてくるのかもしれません。搾取しているのが仕組みなのか誰か人格のようなものなのかはわかりませんが、もし本当に搾取されているとしたら大いに搾取してくれという気持ちが湧き上がってきます。そういう気持ちが出てくると不思議なことに絶対に奪われない何かが身体の中に芽生えてくるのです。

作業員の人たちはとても明るいです。我々の面倒を見てくれている建設会社の人たちもとてもいい人たちです。そうやって自分の半径5mから世の中を見ていくと、分断され全体がわからなくなってしまった世の中のことも少しはわかってくるのかもしれません。

シェアということから心と身体を開いておく。だからいろんな人と交わり会えるという可能性を日々の日常から探っていきます。

zen

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