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カルチャーってなんなの?〜現代カルチャー考察①

 最近自分が参加しているFacebookのクラブミュージックの情報グループ(https://www.facebook.com/groups/875418052567436/ )の方に、社会派なカキコをしてしまう傾向があり申し訳ないので、そういうことはなんとなく書きたいことがまとまったら、不定期でnoteにまとめて書いていこうと思います。

 「音楽を楽しむのに能書きたれてもしょうがねぇじゃん」「音楽は頭でなく感性を用いて鑑賞するものである」などの意見はごもっともで私も大賛成なのですが、大層な思いを心の奥に持ちながら、飲んで踊ってはしゃぐのも味わい深くていいんじゃないかなと言うことでご容赦を。でこの記事。

プロモーターたちのジレンマ

(日本語)https://jp.residentadvisor.net/features/2952

 翻訳の邦文がやや読みにくいのですが、ざっくり簡単に要約するとクラブミュージック、ダンスミュージックがメジャー化、ビジネス化するにつれ「カルチャー」としての力を失いつつあるからヤバいんじゃね?ということだと思います。ロックやヲタクの時もそうだったし、まぁよく聞くタイプの話ではあります。そういう時に何度も繰り返されている話だと思うんですが、復習を兼ねて「カルチャー」について考えてみようと思います。

 「カルチャー(culture)」はすでにほぼ日本語化していますが、文化・教養と訳されます。ご存知の方も多いと思いますが、もともとは「cultivate(耕す)」、「agriculture(農業)」などの英語と同じく「colere(コレレ、ラテン語の「耕す」)」が語源です。これが英語化した時に「心を耕す」という意味で使われるようになったということです。ちなみにGoogle翻訳でラテン語のcolereを訳すと「育成します」と出ます。

 つまり我々の愛する「カルチャー」はもともと非常に農業的な意味を持っているということです。コスモポリタンTokyoエスタブリッシュ(?)を目指す我々にはなかなか農業を具体的にイメージするのが難しいのですが、超簡単にイメージしてみると、まず農地があってそこに春に種を蒔いて、夏の間は毎日水をやって育て、秋になると作物を収穫する。そんな感じだと思います。農業の特徴はいろいろあると思いますが結構重要だと思うのは、工業と違って生産物=収穫のコントロールが難しいということです。例えばトマトのような農産物が、あるとき爆発的に流行して人気が出たからと言ってすぐにトマト農場をあちこちに作って、一気に生産量を増やしたり、一年に同じ場所で何度もトマトを収穫したりっということは基本的には出来ません(実際はいろいろなチャレンジがおこなわれていますが)。天候や災害によって全くの不作という事態も起こります。植物や動物の成長スピードには限界があり、自然の制約を強く受ける。それ以上の生産効率を望んで、人間があれこれと人工的な操作を行えば、おかしなことがいろいろと起こってくるのです。ただ現代では人間が自然環境そのものを生み出すようなことところまで行っているのでこの辺は深く掘り下げませんが、基本的にはそういうことです。

 カルチャーもその語源が示す通り、農業と同じような性質を持っています。心の農民が自然の制約の中で生産活動を行い、年一回収穫してそれを皆でいただく。大昔はそんな感じだったのではないでしょうか?そして現実の社会と同じく、やがて大地主のようなパトロンが現れたり、一人で大収穫を起こすような天才農民なんてのも出てくるようになる。芸術家や作家、ロックミュージシャンなどの「心の農民」たちは、競って新しい耕作地を見つけ、開墾し、生産性向上のためにあらゆる実験をしました。そうした開拓精神と、呑んだくれたりドーピングしたりの我が身を削る農業生産性向上の結果、世界的に名を馳せるカルチャー農民もたくさん生まれ、世界中にいろんなカルチャーが生まれ育ち、またインターネットの普及とともに、世界中の人が同時に同じカルチャーに親しみ、また参加できるようになりました。今ではインターネットさえあれば、とりあえず心の満腹感を味わえるというなんとも恵まれた時代になりました。

 余暇が生み出された近代にはありとあらゆる心の領域が開拓され、膨大なカルチャーが生み出されました。その結果、地球上に未開の地がなくなったのと同じように、心にも未開の地はなくなってしまったのでしょうか?ここが難しいところだと思います。本物の農業には誰もが見ることができ、触れることのできる農地があります。どんどん土地を開墾して農地が海の手前まで行ったらもうそれ以上耕すことはできません。そこが農地の終点です。だけど、カルチャーが耕そうとする人間の心には農地と海の関係のような、ここまでが心でここからは別のものという厳密な境界線があるんでしょうか?私はあるとも言えるし無いとも言えると思います。

 心ってのはそれぞれの人が個別に持つものと思われているので、私の心はここまでだけど、あの人の心はもっと先まで続いている。ということが普通にあると思います。誰も共感してくれないけど私はこの服がなぜか一番好きだとか、最近流行っているあのバンドが自分にはちっとも良いと思えない、みたいな感じです。境界線は人によってバラバラ。そういう意味で共通の境界線はないと言えます。

 しかし境界線は人それぞれでも、だれもが同じように持っている心の領域というのもまたあると思います。喜怒哀楽といった感情なんかがわかりやすい例です。ラテン語の「colere」が生まれた頃、つまりカルチャーが始まった頃はおそらくこの心の共有領域がカルチャーのメインテーマだったと思います。地域や、文明の中の社会階層で分断はあったでしょうが、基本的には誰もが共感できる絵や音楽が尊ばれていた。絵を描いて、できた作品をみんなに見せる。自分で作った音楽や練習した曲を、みんなの前で演奏して聴かせる。カルチャーには心を耕す者も、収穫物を味わう者も、顔の見える人間関係の中で互いの心の存在を認め合うという機能があったんではないでしょうか?この「互いの存在を認め合う」という機能は、今でもカルチャーの最重要機能の一つだと思います。

つづく(予定だが未定)。

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