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学社融合における教師の役割

1. 教師の負担と権威
 「教師の仕事が多すぎる」という話を聞いたことがある。そのせいで生徒一人一人と向き合う余裕がないらしい。それで、教師の仕事を減らし、一クラスの生徒数を減らしたり、担任を増やしたりするという。
 しかし、教師は仕事が忙しく、責任が重いことで「聖職」であったのではないだろうか。もし負担を軽くし仕事を楽にすれば、教師のレベルは上がるどころかかえって下がり、教師の権威(そんなものがあるとして)は地に落ちることにはならないだろうか。
 学社融合の動きの中でも、「学校教師の負担が減る」という内容は少なからずあると思う。その中で、学校教師は今のままでただ楽になることを喜んでいいのだろうか。負担が減るということは権限が減るということに他ならない。そうした中で教師はなにをするべきなのか。学社融合のなかで教師の果たすべき役割を考えてみたい。

2. 学社融合の概要
 生涯学習体制の一環として、学社融合が急速に進んでいる。(ここでは「学」を「学校を中心とする子供の教育の場」、「社」を「それを取り囲む一般社会及び社会教育の場」とする。)その内容は、これまで「社」の領域に「学」が入ること([学]→[社])、またはその逆にかつての「学」の領域への「社」の参入([社]→[学])、という逆方向の2つに大別される。また、その協力内容も場所・施設の提供と機会・人材の提供の2種類に分けられると思う。(実際にはそれぞれ相互に関連しあっているので、この分類は少し無理があるかもしれない。)

ここでそれぞれについて学校の教師への負担の増減を考えてみると、

① 学校施設の開放など
 体育館や校庭・教室など学校の施設を開放する。最初のうちこそ管理問題など学校関係者・教師に負担がかかると思われるが、周辺の住民による自己管理ができるようになれば、かえって教師の負担が減る可能性は高い。
② 開放講座・公開講座の設置など
 高校・大学などで社会人向けの講座を開く。教師への負担はあるだろうが、講座の内容は教師本人の得意とするものになるだろうし、社会人向けの趣味的・実用的なものならば、普段の授業と比べて特別負担になるとは思えない。
③ 公共施設の利用など
 図書館や博物館といった公共施設を利用する。以前から社会科見学、校外授業などで使用されているが、普段の授業でも頻繁に使うと考える。生徒の引率は確かに教師の負担になりそうだ。だが、④とも関連してくるが、教師以外、例えば図書館司書や博物館職員、それに周辺住民の協力があればそんなに負担ではないだろう。
④ 社会人の授業・部活動への参加
 教師以外の社会人の学校教育・部活動への参加。教師に代わり、ある一分野の専門家に授業の一部や部活動の指導を受け持ってもらえば、責任問題などをクリアーしたとするならば、教師の負担は確実に減る。

3. 教師の役割の変化
 教師と生徒を取り巻く環境が変われば、その役割も変わってくる。子供たちに対して学校教育の果たす役割はいくつかあると思うが、大きく分けて
〈ⅰ〉人格の形成
〈ⅱ〉能力の開発
〈ⅲ〉知識の伝達
だと思う。
 これに対して、教育を行なう教師に求められるものは
〈ⅰ〉いわゆる人格者であること
〈ⅱ〉生徒の個性を見抜き、長所を伸ばす能力とそのための豊かな経験
〈ⅲ〉博識
ではないだろうか。かつて学校はこの三つを備えた教師が絶対の存在として君臨する小さな社会を形成していたと言える。学校は一般社会とは別の「聖域」であったのではないだろうか。そこで、現在ではどうなっているか考えてみると、
〈ⅰ〉については高度に情報化された社会においては、生徒たちは外部、特にマスメディアから受け取る情報が多すぎて、もはや学校教育だけで行なうのは不可能といえる。
〈ⅱ〉について、以前から教師の経験不足が言われているが、大学を卒業してすぐ教職につく教師が多いのだから当然である。ということは、この役割を学校教師が上手く果たせているとは思えない。
〈ⅲ〉においては、情報のあふれる現代社会では昔と違い、「何でも知っている先生」ということはありえないと言っていい。
 これらの半分は教師自身の問題であるが、もう半分は社会全体の問題といえる。激しすぎる社会の変化に「聖域」であった教育の現場がついていけなかったのかもしれない。
 それでは学校教育は与えられた役割を充分に果たせていないのだろうか。実際、学校だけでその役割を果たすのはもう限界なのではないかといわれる。

4. 社会全体で行なう教育
 では、子供たちの教育はどうすればいいのか。やはり、社会全体で行なうべきだろう。また、学社融合の目的も半分はそのためだと言える。具体的に考えてみると、
〈ⅰ〉について、人格の形成においては、第一にやはり家庭での教育の重要性が考えられる。以前と違い各家庭の価値観も多様化している現代では、教師が生徒一人一人の父母としっかりと連絡を取り合い、子供の教育に協力してあたる必要性があるだろう。
〈ⅱ〉については、依然として教師の役割であると思う。しかしそれには経験豊富な人材が求められる。そのために教師自身の学習が必要になってくる。
〈ⅲ〉は、教師以外の専門家の協力かもしくは教師の専門家化が求められる。後者は高等学校以上では一般的だが、小・中学校では完全とは言えない。前者は学社融合の分類で考えた④にあたるもので、これから増えていくと思われる。
 これでは先に考えた教師の負担の軽減と比べて、結果的に教師の仕事は増えてしまうのではないだろうか。しかし、教師の役割は確実に変化している事がわかる。

5. 専門家の社会
 以前は一人の教師が多くの生徒を教え導く「1対多」の教育だったと言える。しかし、現在求められ、且つそのように変化してきているのはそれぞれ専門家が集まり社会全体で子供たちを育てていく「多対多」の教育ではないだろうか。(下図参照)

 このような教育の場では教師はオールマイティーであることは求められず、一人の専門家として、つまり「教育の専門家」としての立場にある。そして学社融合が進めば、教育を受ける対象になるのは子供たちだけに限らず、一般の社会人、時には教師自身も含まれることだろう。

6. 教育の専門家として
 ここまで学校教育(学社融合が進めば旧学校教育と呼ばれるかもしれない)における教師の立場を考えてきたが、社会教育の場でも教育の専門家の需要は大きい。
 これからの教師の役割は、学校教育では多くの専門家達を取りまとめる中心役として、社会教育の場では学習する人たちのサポート役としてより多岐にわたると思われる。そしてこれまでのように教育現場という「聖域」の中から出られず、無意味に尊ばれ、無責任に批判される立場から、社会を形成する多くの専門家達の1つとして「教育」を担っていくことになるのではないだろうか。

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