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忠臣蔵鑑賞会〜赤穂浪士引き揚げ巡検 事前企画編〜

こんにちは、鈴と申します。
実は自己紹介noteを未だに書いていないのでこれが初noteになります。ここで簡単に自己紹介をするとアインズでは数少ない日本史好き部員でして、忠臣蔵に日々情緒を狂わされているオタクです。

さて、先月15日、ツェルモニさんにお声がけ頂き「赤穂浪士が引き揚げたルートを辿ろう!」というよく分からない巡検を実施しましたので、報告記事を書かせて頂きます。…と言いたいのですが本記事では事前企画編ということで、巡検の事前企画として行った忠臣蔵鑑賞会について書きたいと思います。巡検当日についての記事はそのうち書きますので忍耐強くお待ちください。今ちょっと忙しいので取り敢えず事前企画編だけです。

また、この記事は忠臣蔵に興味があるけど…という人が忠臣蔵作品を初めて見る助けにもなることを目指して書いています。要はみんな忠臣蔵見てね!ということです。よろしくお願いします。忠臣蔵の知名度低くて悲しい。

企画概要

最初の20分ほど赤穂事件および忠臣蔵について簡単に説明した後、「忠臣蔵」(1958年、大映)を鑑賞しました。なお、コロナ禍ということもありzoomで繋いで各自で動画を見る方式での実施となりました。早く何も気兼ねなく集まってワイワイ映画を見れるようになりたいですね。

赤穂事件/忠臣蔵とは?

まずは最初に行った赤穂事件と忠臣蔵についての簡単な解説の要約版をお送りします。概要についてはもう知ってるよ!って人は読まなくて大丈夫なので目次から次の節に飛んでください。


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ちなみにこれは当日使用したスライドの表紙です(氏名は隠しています)。いらすとやさんにまさかの大石内蔵助のイラストがあり、あまりにも可愛かったため大きく載せてしまいました。癒し系大石さんですね。

さて、「赤穂事件」というのは歴史上の出来事を指す用語なわけですが、具体的に何の出来事を指しているのでしょうか?これは正直この言葉を使う人によって用法がバラバラな気もするのですが、一般的に指しているのは赤穂浪士による吉良邸討ち入りです。ただし、松の廊下刃傷→討ち入り→赤穂浪士切腹という一連の流れをまとめて指して呼ぶ場合もある気がします。ちょっと私も分からない…。

では、この流れに沿って赤穂事件とは何だったのか見ていきましょう。

発端は元禄14年3月14日​(1701年4月21日)、当時の赤穂藩主であった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ事件でした。「この前の遺恨覚えたるか!」と言って斬り付けたと伝わりますが、実際のところ「遺恨」とは何だったのか、刃傷の原因は分かっておらず諸説入り乱れている状態です。

浅野は吉良に背中と額に傷を負わせるも致命傷には至らず、そして浅野は将軍綱吉の怒りを買い、即日切腹という処分を受けました。というのも、まずそもそも江戸城内(殿中)での抜刀が禁じられていたのに加え、当時浅野が勅使饗応役という任務の最中であったことが理由であったと言えます。勅使を迎える大事な儀式の場をよりにもよってその饗応役が血で穢したということは綱吉にとって許せないことだったのでしょう。

また、藩主である浅野内匠頭が切腹となっただけでなく、これにより赤穂浅野家は改易(御家取り潰し)という処分を受けることになります。そうなるともはや赤穂は浅野家の領地ではありませんから、幕府から来た使者に赤穂城を引き渡さなければならないわけです。この作業を、当時の城代家老であった大石内蔵助は見事に終わらせたと言われています。

さて、一方で斬り付けられた側の吉良は、前述の通り傷を負ったものの命には別状がない状態でした。そして、この件に関してなんら咎められることはなく、むしろ綱吉から見舞いの言葉を受けたそうです。現代の感覚からしたらこれは別に不思議ではないかもしれません。けれども、当時喧嘩両成敗が原則であったのにも関わらずこのような処分となったのはおかしい、と考えた人たちもいました。

そうして起こったのが、吉良邸討ち入りでした。浅野の切腹からちょうど一年と九ヶ月後の元禄15年12月14日(1703年1月30日)、浅野の遺臣である大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り吉良を討ち取りました。一行は吉良の首を持ち、浅野家の菩提寺であった泉岳寺へと引き揚げます。(この時引き揚げたルートが今回の巡検ルートになります)

ちなみに討ち入りと言えば雪の印象がありますが、実際は討ち入りの時は雪は降っていなかったんだとか。とは言え前日降っており積もってはいたようで、足音が消えるという意味で最高の条件だったと言えるでしょう。そういえば2.26事件も雪のイメージがありますが、そちらも「雪の中での蹶起」は脚色らしいですね。

さて、そもそもどうして赤穂浪士は吉良邸に討ち入ったのでしょうか?一般的に「仇討ち」と言われるように、「君父の讐、共に天を載くべからざる」「亡主の意趣を継ぎ」​といった文句が討ち入り時の趣意書である「浅野内匠家来口上」に登場します。やはり本人たちも「主君の仇討ち」という意識でいたことは間違いないでしょう。ではどうして吉良は浅野の仇なのでしょうか。

まず挙げられるのが、吉良は浅野が命をかけて斬ろうとした相手であり、それを果たすのが家臣の務め​であるという考え方です。そして更に言うと、先ほど少し触れた喧嘩両成敗という考え方も関係してきます。吉良は刀を抜いていなかったとは言え「喧嘩」であり、吉良が処罰を受けていないのは片手落ちの裁定である。そして幕府がそれを取り立てない以上、実力で「大義」を実現するしかないというわけです。ちなみに忠臣蔵で作品で一般的な演出である吉良による浅野いじめについての真偽は謎ですが、比較的事件直後から噂が流れていたようです。尤もたとえ根も葉もない噂話であろうと面白いゴシップにすぐ飛びつくのが江戸っ子たちだったのかもしれませんが…。

現代の価値観から考えると「吉良が浅野の仇である」ことに納得できない人も多いかもしれません。けれども当時の武士のあり方、価値観を考えた時、彼らの嗜好は不合理でも何でもなく当然の帰結だったのではないかと考えます。

さて、話を戻して討ち入り後について見ていきましょう。幕府も困ったのが、浪士たちの処分でした。取り敢えず泉岳寺に引き上げた浪士らはその後四家に分かれてお預けとなりますが、幕府内では彼らの処分について激しい議論があったといいます。そして最終的に元禄16年2月4日(1703年3月20日)、46人に切腹の沙汰が下り、それぞれのお預け先の屋敷で切腹となりました。「徒党」「押し込み」とされたものの、死罪(斬首)ではなく武士として名誉の死である切腹という処分となったのです。

ちなみに「46人に切腹の沙汰」と言いましたので、「一人減ってない?」と疑問に思われた方もいるかもしれません。これはその通りでして、実は寺坂吉右衛門という足軽だった者が姿を消していることが原因となっています。吉良邸からの引き揚げ途中に姿を消したと言われており、大石から密命を受けたとか何とか言われますが実際の真相は不明となっています。

ここまでが赤穂事件の大まかな経過ですが、最後に「忠臣蔵」とは何かという話をしたいと思います。「赤穂事件」と「忠臣蔵」はしばしば同じもののように語られますが、赤穂事件は史実の事件そのものを、「忠臣蔵」はそれを題材とした様々な物語作品群を指して使われます。

「忠臣蔵」という単語が初めて登場するのは1748年のことです。人形浄瑠璃及び歌舞伎​の演目として、赤穂事件を題材にとった「仮名手本忠臣蔵」が初演されました。尤も江戸幕府の統制のもと実名では上演できないため、太平記の時代に仮託されていましたが、大石内蔵助の立ち位置にあるキャラクターの名前が「大星由良之助」であることからも赤穂事件のことを描いていることは当時誰にとっても明らかだったでしょう。

そして明治以降実名での作品制作ができるようになると、多くの作品が作られ賑わいを見せます。終戦後GHQの占領下で禁止されるが、独立後はまた盛んに作られ名作が多く誕生しました。一時期は「年末はいつもテレビで忠臣蔵をやっている」というような状態だったといいます。そして、そうして繰り返し物語として語られることで浅野や大石らは善、吉良は絶対的な悪という図式が確立​し今に至ります。尤も近年は新解釈系の作品も生まれており、これまでの「王道演出」が覆されることも多く起きています。

忠臣蔵が以前ほど多く作られなくなって長いですが、今後正統派の忠臣蔵が作られることはあるのか、あるいはどのような新解釈が生まれるのか、「忠臣蔵」の行く末を見守っていきたいと思っています。そしてまた、なんだかんだ「忠臣蔵」の物語が300年人気であり続けた理由はどこにあるのか、考えて見たら面白いのではないでしょうか。これまで忠臣蔵を見たことがない人は、良ければ一度見てその世界に触れてみてください。

「忠臣蔵」(1958)を観る

さて、それでは後半、というかメイン部分である忠臣蔵の鑑賞会の話に移りたいと思います。今回の鑑賞会では「忠臣蔵」(1958)を観ましたが、この作品は忠臣蔵作品をこれまで観たことがなく、初めて観るという人には一番おすすめできる作品かと思います。少なくとも私が観たことのある中では。王道の流れをちゃんとやっており、初心者に分かりやすい印象です。

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(画像:amazonより引用)

あとキャストが豪華です。大石内蔵助を長谷川一夫が、浅野内匠頭を市川雷蔵がやっていたり、他にも勝新太郎や鶴田浩二などの錚々たる俳優陣が並びます。そういえば観賞会が終わった後「私は鶴田浩二の顔が好きなんですよ!!」と騒いでいて大変申し訳ありませんでした。好きなんですよ…。ちなみに「浅野さんの顔が美しい」という感想をくれた人もいました。分かる。

顔の良さは一旦置いておくとして、ここからは鑑賞会中に出た質問をいくつか取り上げていきたいと思います。

1.浅野内匠頭の切腹時、桜が咲いているのは時期的に妥当?演出?

浅野内匠頭の切腹と言えば桜ですよね。これに関しては基本的に妥当なのではないかな?と思っています。

浅野の切腹は新暦で言えば4月21日、ちなみにもちろん江戸で行われましたので今の感覚からすると遅いな、という感じかもしれません。ただ注意するべきなのは、ここで言う「桜」はソメイヨシノではないということです。現代の我々にとって桜といえばソメイヨシノですが、その誕生は江戸時代後期のことですので元禄の頃にはまだ存在しません。ですので、その他のソメイヨシノより開花が遅い品種が見頃だった可能性はあるでしょう。さらに言うと元禄の頃は江戸小氷期と呼ばれる寒冷な時期だったようで、地球温暖化が叫ばれる今よりは桜の開花は遅かったのではないかと思われます。

ただし、浅野が切腹した田村邸の庭に本当に桜があったのかは知りません。誰か知っている人がいたら教えてください。それならなぜ浅野内匠頭の切腹は桜とセットで描かれるのか?と言うと、彼の辞世の句に関係しているのではないでしょうか。

「風誘ふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ」

暇な人は品詞分解でもしてみてください。意味的に言えば、「風に吹かれて散る桜の花よりも、ずっと強いこの私の心残りをどうしたらいいだろうか」という感じでしょうか。(高校の頃古文の和歌の解釈がめちゃくちゃ苦手だった人なのであまり信用しないでください…) 

心残りを桜の中に綺麗に読み込んだすごい歌だなあ(頭の悪い感想)と思いますが、この歌のイメージがあるからこそ、そしてこの辞世を映えさせるために美しく散る桜の下での切腹が定番の演出になったのではないでしょうか。

この辞世の句が存在すると言うこと自体、時期的にちょうど桜が散る時期だったことを示しているのではないかとも思います。ただしこの辞世の句、あまりにも有名ですが、実は偽作疑惑があります。この歌は「多門伝八郎覚書」という浅野の切腹の検使役であった多門の日記に書かれているものなので史料としての信憑性は高いものの、浅野家の記録にも田村家の記録にも残されていないんだとか。まあ偽作だとしても作ったのは多門であり実際の現場を知っていた当事者ですから、時期的な表現としては信用に足りる…んじゃないかな…。

2.(浅野切腹後の場面で)刀見て泣いている人は誰?

大石内蔵助です。この刀はおそらく浅野内匠頭が切腹に用いた刀であり、「殿の形見」なのではないかと思います。

ちなみに大石内蔵助を見分ける簡単な方法は二つ巴の家紋です。これが付いている服を着ている人は大抵大石内蔵助なんじゃないかな。若者の場合その息子の大石主税の可能性もあるけど。家紋は慣れると人物を見分けるのに非常に便利かと思います。

しかし、討ち入りの時は黒小袖に名前書いてくれるから見分けやすくていいですよね〜。でもたまに討ち入り衣装に名前書いてない演出もあります。分かりにくい。

3.松の廊下〜討ち入りの期間、江戸で吉良は本当に人気がなかったのか?討ち入りを望むような声は庶民の間で強かったのか?(吉良は領民からは人気があったという話がある)

ごめんなさい。まじで分からん。詳しい人見ていたら教えてください。

ただ、前述したように吉良による浅野いじめの話が比較的事件直後から広まっていること、赤穂浪士が討ち入るのでは?という憶測が流れていたことは事実のようです。それはある意味で太平の元禄の世に面白い出来事を求めるような世間からの期待の目であり、討ち入りをしないことは武士として面子が立たない、みたいなのはあったのではないでしょうか。

答えになってないな…。申し訳ないです、調べてみます。

4. 47RONINの鑑賞会したい

私もしたいです。正統派忠臣蔵を見たことがある人たちでツッコミ入れたりしながら見たい。私、意外と47RONINは嫌いじゃないので…。

そのうちまじで企画するかもしれません。最早地歴でもなんでもないのでは?って気がしなくもないけどそんな頭おかしい企画して大丈夫?


さて、ここからは質問としては出なかったものの見る上で初見では分かりにくいな…と思った箇所の解説をいくつか。

1.最初の早駕籠

刃傷事件、そしておそらく浅野の切腹までを伝える早駕籠です。いきなりこの場面から始まり、そして刃傷前のシーンに繋がるので時系列が逆転していてめちゃくちゃ分かりにくいな…と思いました。

2.「大夫」とは?

作中で何度か大石さんが「大夫(たいふ?たゆう?どっちでだったか記憶が定かではない…)」と呼ばれています。これは大石内蔵助のことを指しているのですが、江戸時代大名の家老のことをそう呼んだんだそうです。

そもそもは中国の周の頃の官名から始まり、日本の律令制度下で公卿を指す言葉として使われ…という歴史があるそうです。ちなみに高位の遊女を「○○太夫(だゆう)」と言うことがありますが、そもそも「大夫」「太夫」が高位の人を表す尊称だったことで遊郭にその呼称が持ち込まれたということのようです。ちょっとあまり詳しくないので間違ってたら教えて欲しい。怖い。

3. 上杉家と吉良家の関係について

作中で上杉家絡みの人たちがちょくちょく登場しますが、そもそも上杉家と吉良家はどういう関係なのか?というのが分かりにくい気がするので解説します。

吉良上野介の妻は上杉家前藩主の娘であり、二人の間に生まれた長男である綱憲が上杉家の養子になり討ち入り当時の藩主となっていました。そして綱憲の息子義周を上野介は養子にとり、嫡子としています。簡単に言えば上杉家当主の実父が吉良上野介なわけですから、当然討ち入りを防ぐために上杉家も力を尽くすことになるのです。

最後に

思ったより長文になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。読んでいて面白くなかったかもしれないですが書いている私は楽しかったです。はい。要は自己満足です。

それでもこの記事が、忠臣蔵に興味があるけれどもよく分からないという人の何かの助けになったら嬉しいなあと思います。みんな忠臣蔵見てください(2回目)。

そして、事前企画としての忠臣蔵観賞会で忠臣蔵について知ってもらえた後はいよいよ引き揚げルートを辿る巡検当日となります。当日のレポートは後日上げますのでしばらくお待ちください。


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