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息子が病気になった時の記憶

私の息子は生後10ヶ月の時に「急性壊死性脳症」を
患ってしまった。
病気になる1週間前は家族4人で絵に描いたような幸せな旅行をしていた。
結婚してから辛い不妊治療を繰り返して2人とも授かった。今から思えばバカげたエゴだったけれども
あまり生い立ちも普通では無かった私は幸せを偏った考えでしか思い描けず「子供2人」に執着し、
長い不妊治療の末、2人目の息子を産んだ。
息子も10ヶ月になり漸く手に入れた「家族4人で普通の楽しい旅行」。
旅行からの帰り道の車中で夫と普通に幸せだね、と
語ったのは今でも忘れずによく話題になる。

私たち夫婦は関東出身だが夫は転勤族なため結婚してからはずっと広島赴任だった。
その年は広島市はインフルエンザが大流行していたが何不自由無く育ってきた第一子の娘、丸々健康に産まれてきた息子にインフルエンザワクチンを接種しなければいけない、という義務感のようなものは無くワクチン接種を怠っていた。

旅行から帰宅後、娘がインフルエンザになり、息子もインフルエンザになった。
いつもの通り病院に行き薬をもらい娘は回復し、息子も解熱してホッとしていた。
しかし解熱後2日、息子が元気が無い。
いつも呼びかければニコニコ笑って応える息子が
明らかに元気が無いのは気にはしていたがそのまま1日を過ごした。
次の日は日曜日だった。息子の元気は回復しない。
抱き上げてみたら首が座らない。
と、同時に目の玉が漫画の描写そのままにグルグル回り出した。これはヤバイと思ってパニックになってしまい救急車を呼ぶという思考に至らなかった。
娘がいるため、私は家に残り夫が車で休日外来に走り、2時間後に脳が浮腫んでいるから…云々と連絡を受けそのまま息子は夫と入院となった。
私は脳症という病気を知っていたからその時点でもう息子は脳症なんだと確信していた。
生きた心地がしないまま夫の報告を受けながら娘を抱きしめて泣きながら一夜を過ごした。
息子は一般的な脳症の治療が全く効かず朝になって
意識が低下、もっと専門的な治療が受けられる病院に救急搬送された。
娘を友達に預け、私は病院へ向かう。
救命救急センターの前で夫がコーヒーを握りしめて俯いて座っていた。
「ダメかもしれない」ポツンと夫が言って私も泣いた。ただ座って泣いて祈るしか出来ず、何時間も待ち続ける。横浜から私の両親がボストンバック一つだけで駆けつけてきてくれた。
何時間待ったかわからない、医師が呼びに来て救命救急センターに入る。

恐ろしい量の管に繋がれて真っ白くなった意識の無い息子がそこにはいた。
病気になる前は顔がパンパンで真っ赤な頬をしていた息子が一回り以上萎んでいた。まるで人形のようだった。

私は支え無しでは立てない状況で何とか息子に呼びかける。私の両親は大丈夫なのか、生きられるのか、後遺症はどうなるんだとパニック、夫は大号泣。
救命救急の医師が「静かにしてください‼︎息子さんは生きていますが楽観視しないでください‼︎今は生きるか死ぬかの賭けです。治療法が確立されておらず、この病院で、この治療を小児にするのは初めてです。先ずはこの4日が山です。こちらは最善を尽くします!」と一喝。
壊死性脳症はサイトカインストームであり、自己の免疫細胞がウイルスに過剰反応して暴走。ウイルス以外の自身の臓器を攻撃するという病気だ。
治療法は低体温療法で体温を34℃まで下げ、呼吸を始め全ての身体の働きを止めて脳や臓器を攻撃している免疫細胞も止めるというものだ。
この治療法は外部からのウイルスや細菌が管から侵入すれば直ちに止めなければいけない、即ち止めれば死んでしまうということだった。
その後は輸血の同意書、治療法の同意書、入院手続き等で涙が止まらないまま書類を書いていく。
ベッドの拘束具の同意書の時に、夫が「もうきっと動けるようにはならないと思う」と呟いた。
私は泣きながら怒鳴って「そんなこと何で言うの⁈」と詰めより、責めた。
今から思えば夫は一晩、息子と過ごしていて私にはわからない苦しみを味わっていたし転院する時に泣いて医師に怒鳴ったのを後から聞いてそんな末に出てしまった言葉なんだろうなと理解はできるがその時は本気でぶん殴りたくなるほど聞きたく無い言葉だった。
何か食べないと、と両親に促され病院の食堂で食べたくも無いケーキを注文した。
食堂のテレビではちょうど朝ドラの再放送が始まり、AKB48の「365日の紙飛行機」が流れた。
涙が滝のように溢れてケーキどころでは無い。
何でこんなことに、何で息子がこんな目に、何で私が!何でうちの家族が!なんで!なんで!なんで!
急に現実が押し寄せてきて怒りの感情が湧き起こり、同時に「あの時、救急車をよんでいれば!ワクチンを接種していれば!旅行に行かなければ、いや、不妊治療までして産まなければ…!」と後悔の念が湧き起こり、そして私は無になった。

それから暫くは夫と病院のソファで寝泊まりしながら限られた救命救急センターへの面会をした。
もう怒りも、悲しみもあまり感じなかった。
ただ、朝、目覚めたくなかった。
夢であって欲しいと思いながら眠りについた。
しかし現実は覆るわけがない。
これがその時の「記憶」だ。

その後はもっと重い現実がのしかかるのだが
その後の話はまた後日にしたいと思う。
息子は現在、小学校1年生だ。支援学級に
在籍している。
今は、先述した状況からは考えられないほど回復している。もちろんここまでの道程にはいろんなことがあり勝手に回復したわけでも成長したわけでもない。そんな話も後々書いていきたい。

さて、私が今日これを書いたのは息子の連絡帳に書いてあったことにイライラしたからだ笑
それを浄化したいがために回想録を書き、心を落ち着かせた次第だ。

なかなか良い使い方だと我ながら思う。




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