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つつんで、ひらいて

 本をよむ行為は、本を手に取る時からすでに始まっている。菊地信義が本の装幀に注ぐ想いを見て、私はそのように感じられた。本を開き文字を追いかける時ではなく、題名を訓み、フォントの間を詠み、帯を読むその瞬間から、すでに本は私たちにさまざまな「よむ」体験をさせてくれる。装幀の仕事とは、そんな考えから生まれるものかもしれない。

 『つつんで、ひらいて』は装幀者である菊地信義に迫ったドキュメンタリー映画である。私は装幀に関心はあれど、その仕事自体に詳しくない方であった。今回は幼少からの絵の先生の便りで本作をすすめられ興味をいだき、出町座に足を運んだ。

 本はひとりの手に渡るまでにいくつもの人々の手を経て世に送り出される。テキストを書く人、校正をする人、編集をする人、デザインをする人、紙を印刷する人、紙を切断する人、製本をする人…人々の手によって作られた何冊ものうちの一冊がひとりの手に渡る。文字を追う時、本は作者の創作物として読者と対峙される。しかし工場で次々と凄まじい速さで刷られていく紙の流れを見ると、その本ができるまで携わった人々がいることに改めて気づかされた。冒頭の工場の場面は、鑑賞者の本と対峙する視点を装幀者の視点に自然と引き寄せるきっかけとなっていた。

 はじめに『雨の裾』の装幀を手掛ける菊地の姿が映る。はさみ、えんぴつ、三角定規、膨大な量の紙見本帳やフォント資料、スコープ、コピー機などの道具を使い頭の中のデザインを紙に起こす。そうして手間をかけて仕上げられる手作業は、パソコン作業よりも本を手に取る実感を持ち易いのだと思った。菊地のデザインはアナログで仕上げた後、長年勤める助手によってデジタルに換えられる。その際にも助手とのやりとりで細かな調整が入る。『雨の裾』の装幀はタイトルを読み取り、はじく雨飛沫をグラデーションに、落雷をしおりにして詩的に表された。本には物語が描かれているが、装幀がそれを語るかのような作品だ。そしてそのこだわりを本を片手に嬉々として語る装幀者自身の姿が印象的であった。

 菊地信義には弟子がいる。水戸部功は菊地と同じく独立した装幀者である。手がけた作品の装幀に面白味を与えるような部分は菊地と共通しているように思う。
-死装束
菊池はあるとき水戸部の装幀を見てそう発したと言う。洒落たこの一言に、手がけた本人でない私までも敗北感を感ぜずにはいられなかった。装幀を職とする菊地はただ彼の仕事を非難するのでなく、その喩えによって本を殺すデザインさえも美しく詠み表した。表現者として敵わないと実感したのである。
 この言葉に水戸部は、「弟子が装幀を殺そうとも、最終的に菊地信義という装幀家がいたという結末に至るだろう。」と師を仰ぐ姿勢を見せた。だが仕事をこなす中で生じる現実と師の理想の狭間で起こるむず痒い思いが見え隠れするようだった。この葛藤は制作をする者の多くに通じるように思われた。

 
 ある時、菊地は装幀に関心を持つきっかけとなった著者の新作を手がけることになった。深く蒼い色に染めた紙に白いカバーを掛け、白い肌を表すような装幀に決まった。試作の紙が完成した際、菊地は「愛しい彼女の肌みたいだ。」と文字通り紙に頬ずりする。その姿は一見すると、少々常人には理解しがたい初老の狂愛的な行動かもしれない。しかしそれは紙という媒体で仕事をする者のあるべき姿のような気がした。それだけ熱を持って向き合えるため、数々の味わいを持った作品が作られる。表現者は深い愛好があってこそ表現ができるのだと私は思う。

 今、私はスマートフォンの盤面を叩いて文字を紡いでいる。読者はもしかすると割れてしまった盤面のひびの隙間から、この文字を難なく追っているのかもしれない。情報通信機器は文面のみをそのまま伝えられるが、文字を追う媒体は全く別物になる。その差異が文章の与える印象にどう左右されるのか、ここが装幀の第一歩だ。情報通信機器が普及した時代に、紙でできた本である理由を考えたとき「装幀」が大きく目前に現れてくるように思われた。そして装幀から立ち現れる「本の愛好の仕方」は失われたくないものだと、本をじっくり味わえられる映像を見て感じた。(ただ実物を見て、ではなく映像からこの感情を抱いた事実は少々皮肉めいている。)

 この映画では、装幀者の見る美しい視点に改めて気づかされた。出町座に併設された本屋には菊地と水戸部が手がけた作品が並ぶ。それらは実際に手を触れて楽しむことができる。劇場を出た後、目に入る明朝体のタメの部分がいつもより少し愛しく感じられた。

(田部)