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信じるって何だろう。

信じるって何だろう。
こんな疑問を抱いた事はないでしょうか。

よくお坊さんの法話で、
「信じる心が大切です。」とか
「まずは信じる事からはじめましょう。」
という話を耳にすると思います。

でもいきなり「信じて」と言われても、少し難しく感じます。
何故なら、信じるとは「疑念を抱かずに、とにかく身を委ねてお任せする」というイメージがあります。
そんな事をいきなり言われたら、少し引いちゃいます。

例えば、初めて会った異性にいきなり「私と結婚して下さい」と言われたとします。「いやいや、まだあなたの事を良く知らないし、色々お互いに理解していかないと・・・」「大丈夫です!信じて下さい。信じて付き合っているうちに私の良さが分かってきますから」と言われているようなものだと思います。

これでは、本当は良い人(教え)なのかもしれないけど、信じないと始まらないのなら遠慮しよう、となるのが普通です。

では、仏教で定義する「信じる」って本当にこのような肉食系信心なのでしょうか?実はここに大きな勘違いが潜んでいます。

仏教にも当然古くから「信心」という言葉が存在します。
サンスクリット語には対応する原語がいくつか存在しますが、大別すると
〈śraddhā(シュラッダー)〉という、
教義や理論に対し自ら確かめて確信する〈信〉

〈bhakti(バクティ)〉という、
神などに対し主観的・個人的に信じる〈信〉が存在します。

もちろん、どちらの〈信〉も大切な信心です。
しかし、現在のお寺では後者の〈信〉を強調し過ぎている感じがあります。
つまり「信じるがスタート系」の信心ですね。
しかし、自らに生まれた疑問や課題を、修行などの体験を通して、腑に落としナットクした先に訪れる「信じるがゴール系」の信心もあります。
この、教義や理論に対し自ら確かめて確信する〈信〉をもう少し大切にしても良いのではと思います。

どちらの信心においても大切な事は「自分が本当に大切だと感じることを信じる」ということです。誰かに言われたから、盲目的に信じるのではなく、自分の心に素直になる事が肝要です。

お坊さんが〈信心〉が大切ですよ、と盛んに言うのは「様々なものを盲目的に信じるのではなく、自分の心に素直に、そして頭でしっかり考えて答えを出して下さいね。考えるヒントはお経に沢山散りばめられていますよ」という意味合いが隠されているのです。

いずれにしても仏教の〈信心〉とは、視野が狭くなる心の状態ではなく、視野が広くなり周りが見渡す事ができる。自己中心的ではなく、利他的な行動が伴う心の状態だと云えます。
仏教の目指す信心は深まれば深まる程、他者に優しくなり、多様性を受容するものです。私は正しく〈信心〉を理解する事は、悲しい宗教間の対立を離れる事につながると信じています。
仏教の〈信心〉は、肉食系でも草食系でもない〈中道〉なのです。

続きは随時更新していきます。
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