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四十にして惑わず

私事だが、今年の8月で40歳となった。
自分が子供の頃に想像していた40代とは掛け離れ過ぎており、この年代に突入した実感がまるで湧かない。
貫禄は元より、自分の行動や選択に対する自信もまるで無し。
何よりやりたい事だらけで、思考も四方八方に飛んでいく始末である。
まるで子供の時のままだと改めて実感する誕生日だった。

さて、40歳というと有名な言葉に「四十而不惑」がある。
孔子[前552~前479]が論語の中で残した言葉であり「四十にして惑わず」と書き下される。
人も40歳ともなると、あれこれ惑わずにビシッと一つの物事に集中したり、成し遂げる事が出来るのだろう、と漠然と頭に入っていた言葉であるが、現実は真逆である。
日々8割方迷っているし、集中もしていない。そして何も成し遂げていない。
歴史上の偉人と凡人では、こうも違うのかと妙に納得しそうになった矢先、とても面白い本を読んでしまった。
「身体感覚で『論語』を読み直す。」安田登 著
著者によると、論語を読む際の大切な観点として、使用されている漢字の成立年代がある。
・孔子が生きていた時代には無かったが、近代に使われ始めた漢字。
・孔子が生きていた時代に使われていたが、現代では失われた漢字。
この2点がある。
そして、論語にもそのような漢字が存在し「四十而不惑」にも一文字あるという。
それは「惑」である。
この「惑」は近代になって使用された漢字であり、孔子が生きていた当時は「或」という漢字が使用されていた。
この「或」は区切る、境界を決める、という原義がある。
「或」に土偏を加えると「域」になり、口で囲むと「國」となる。
いずれにしても領域を区切る事を意味とする言葉である。
この類語からも推測できる通り、「或」を「四十而不或」に当てはめると、「四十にして区切らず、決めつけず」というような意味となり、今までのイメージとは真逆になる。
この言葉なら今の私でも腑に落ちる。
40歳になって、少なからず経験や成功体験を積み重ねてきた。
しかし、その経験や体験に縛られ過去の成功にしがみつくのではなく、前向きに新しいことにチャレンジしていく事を応援してくれている気がする。
私はこの40代を「惑わずではなく、決めつけず」に過ごしていきたいと思う。

続きは随時更新していきます。
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