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それぞれの葛藤の中で。

これはもう、昔のこと。その日は朝からとても嫌な気分だった。ある上司の機嫌が悪かったのだ。

開店前のスーパーは、死ぬほど忙しい。特に日曜の後の月曜日はひどい。売場の棚は、あちこち商品が減っている。商品を売場にすべて出し終えて、開店に間に合わせなければならない。

価格チェックも、商品の鮮度も完璧でなければならない。そんな忙しさの中で、その上司は怒鳴り始めたのだ。

「お前は、何をやってんだ!」

・・・やれやれ。またか、と私の気持ちは暗くなった。刃を向けられたその先にはAさんがいた。今日の犠牲者だ。Aさんは、店の中で一番の年配の方で大人しく、背は低く、頭は禿げてて背中も少し曲がっていて、まじめではあるけれど、少々要領の悪い方だった。

「この品切れしている商品は、どうなってるんだ!どうやって売上げを作れるんだ!お前は店をつぶす気か!!」

Aさんは、ひたすら怒鳴られている。周りの空気がよどんだように、嫌な雰囲気が漂い始める。Aさんは「すいません、すいません」としか言わない。ずり落ちたメガネを一生懸命に直している。

私は思った。どうして人手が足りないからと、Aさんは本当の理由を言わないのだろう。それに根源的な原因は、そもそもその怒鳴っているその上司の管理能力なのだ。上司の怒鳴りは売場の奥まで響いた。ただの騒音でしかない。やめてくれ。仕事にならない。肉体的にも、精神的にも・・・。

私は考えていた。こんなふうに、ただ、怒鳴るだけの人が、どうして管理職になれたのだろうと。その資質を疑った。

なぜ理由を聞かなければ、
何もわからないのだろうか。

怒鳴り声が続く中、私の中でも怒りが芽生える。何より私がその人に対して、一番許せない点は、その上司は叱る人を選んでいるということ。いかにも言い返しもしないような立場の弱い、大人しい人ばかり選んで攻撃している。そういう人たち以外にその怒鳴り声を聞いたことがない。

私は何度も怒りのままに、そう繰り返し思ったのだけど、Aさんを弁護するほどの勇気は持ち合わせていなかった。私も怖いのだ。怒鳴る人は怖い。何を考えているのわからない。うっかり言い返せば、自分がどうなるかわからないと考えてしまう。

それは当たり前かもしれないけど、理想と現実の隔たりを目の当たりにしてしまうと、心はどこまでも暗くなる。Aさんを犠牲にしていいのか?おいおい、私はこんなものかと。

大きな声で怒鳴る人を私は心の底から憎む。何度もひどいクレームで、それをひどく味わったから。殴られると痛いけど、相手も痛い。大声や怒鳴り声や、叱り飛ばすような暴力行為は、見た目は痛みは無関係のように見える。

でも、心は深い傷を負っている。それと同じほどの深い傷は、相手には何もつくことはない。それどころか余計なうっぷんも、ついでに吐き出しているぶん、爽快かもしれない。支配欲が満たされているのかもしれない。

なんてことだ。それじゃ体罰よりもひどいじゃないか。心が見えないことをいいように利用してるだけのことじゃないか。

心は何度も言葉を吐き出しそうにそうになる。でも私は忙しそうに、開店準備をしている。こんなことよりも大切なことを、今、私は抱えてるというのに。

結局、私は何も言い出せず、ただのひとりの傍観者にすぎなかった。みんながみんな、そうだった。気づけば誰もが、みんな、それぞれに。

仕事をしているとこんなふうに、その意味が遠くてわからなくなることがある。何のための仕事なのか?そう思うと、答えはひとつに定まらない。

開店、10分前の慌しさの中、誰もがみんな他人顔。汗もふけない、忙しすぎる。ただ、ただ、何かに追われて。

Aさんは、まだ、頭を下げてる。

私はまだ、怒りを隠している。そんなふうに、何もかもが、どうしようもなかったあの頃、私はずっと考えていた。

あのとき、Aさんは心の中で
どんな葛藤を続けていたのだろうかと。

あふれる怒りを押し殺しながらも。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一