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たった1行の想い。

どうしよう・・・とそのときの私は思った。
涙があふれそうになっていたのだ。

しかもそこは、店の社員休憩室。みんなそれぞれに、タバコを吸ったり、談笑したりテレビを見たりで、わずかな休憩時間を楽しんでいた。

私はいつものように禁煙席でひとり、新聞を読んでいた。いつものページを読み終えて、あとはただ眺めているだけで終わりのはずだった。でも、偶然、目に止まったのが、よくある読者の投稿欄。そこには読者からの短いエッセイが載っていた。

それは確かこんな文章からはじまっていた。

「親子3人で、手をつないで病院へゆくと、5才の息子は、余命あとわずか1年だった・・・」

読み進めて行くうちに、まず私が最初に感じたことは、この文章には命が宿っている、ということだった。あせった。本当にあせって、どうしていいかわからなかった。どんどん読み進めて行くうちに、心臓の鼓動が大きくなってゆくのがわかった。

私だったら、何十行も書かなければ伝えられないようなことも、この母親はたったの1行で、そのすべてを伝えている。本当の想いは、いくつもの言葉を必要としない。私はそれを実感した。その母親の儚い涙が、そばで聞こえてくるようだった。

どうしよう・・・私は泣いてしまいそうだ。このエッセイをすべて読み終えたら、私は絶対に泣いてしまう。もうすでに、目に涙が溜まってゆくのがわかる。目の前が、だんだんぼやけてゆがんできていた。私は読みたい衝動を一心に堪え、文字からそっと目をそらした。そしてひとり、ゆっくりと時間をかけながら、深呼吸をした。ぐっと目に力を入れる。そしてまた、読みつづける。何度かそれを繰り返した。

普通なら、3分もあれば読み終えるような短いエッセイを私は10分もかけて、読み終えた。周りのみんなは、私の泣きそうな状況を誰一人、気付いてないようだ。

・・・よかった。本当に助かった。

でも、もしも今、誰の目も気にしないで、泣きたいだけ泣けたなら(内容を考えれば不謹慎かもしれないけど)どんなにいいだろうと、私は心底思っていた。

これはそんなエッセイだった。

心の毒が涙になって、すべてこぼれてゆくような気がした。その感覚が私にとって、とても大切なもののように思えた。たった数行で、私はどれだけの大切な想いを、人に伝えることができるのだろうか?

ふと、そんなふうに思った。

私はもともと理系が好きで、文章を書くのはとても苦手だ。(小学生の頃、国語の文章問題で0点をとったこともある。)いやいや、そんなことはないよと言って下さる人がいるかもしれないけれど、本当に苦手だ。よく文章を書き間違えて、あとから書き直すこともある。それに気付かないことすらあるのだ。

ただ、ひとつだけ注意していることは、伝えたいことを書くということ。心から伝えたいことがないときは書かない。(というか書けない。)それは読んでくださる人に対して失礼だからだ。伝えたい想いが強いと自然と言葉があふれてくる。自然と比喩的な表現も出てくる。それは誰もが同じことだと思う。この想いはもう、どうしても書くしかないんだ!そんなとき、テクニックなんて何もいらない。誰もがきっと、心を震わす文章が書けるのだと思う。ただ、それだけだ。(もちろん、気負わなくても、小さな想いさえあればいいと思う)

話が少し脱線してしまった。

もう1度あのエッセイが読みたい。本当に心から読みたいと思った。叶うなら、誰もいないたったひとりの静かな場所でもう1度だけ。

そしてそんなエッセイを、書けるようになりたいと思う私もいる。心が言葉になって、その人に伝えてゆく。そして、生まれたその気持ちを、その人もまた、誰かに伝えてゆく。

そんな人の一人になりたいと私は思う。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一