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その命と言葉のない言葉たちと

昔、かなりご年配のお客さんと接客をしていて、テレビの寿命を聞かれて「そうですね。約10年くらいですね。大事に使っていただければ、もっと長く使えますよ」なんて私は明るく笑って答えたのだけど、不思議とそのあとに、決まって年老いた人は、こう答えるのだ。

「もう、わしはそこまで生きていないからなぁ・・・」

そう言いながら、かすかに微笑んでいる。

その小さなつぶやきに、思わず私は次の言葉を失ってしまう。冗談なのだろうか?それとも深刻なのだろうか?それがお年寄りの言葉だけに、決して軽く思えないのだ。こんなふうに接客の中で、私はいきなり”人生とはなんだ?”とその年老いた人に、問い詰められたような気分になる。

なんだかまるで、明るいニュースのあとで、いきなり訃報を知らせなければならないニュースキャスターのようだ。笑顔がそのまま固まってしまって、うまく表情が作れなくなる。

自分の死は、私はまだまだ遠い日だと思ってはいるけれど、いつしか、私もあの年老いた人のように自分の死を、この手の届く場所にあることを意識しながら、生きて行く日が来るのだろうなぁなんて思う。

それはなんて切ないことなんだろう。

私はいつもそんなお年寄りの言葉に「そんなことないですよぉ」なんて笑って言っていたけれど、今思えば、なんて失礼なことだろうかと思う。

その人は、もしかしたら、何か見えない重い病にかかっているかもしれないし、その兆候をどこか真剣な思いで受け止めているのかもしれない。私みたいな何も知らない店員が、「そんなことないですよ」なんて笑いながら言えるだろうか?

考えすぎと言えばそうかもしれないけれど、私にとっては、それが正しいとは思えないのだ。

今の私の結論は、「ただ何も言わないで微笑む」ということに落ち着いている。いや、ただ、その言葉を受け入れると言ったほうがいいだろうか?気づけば微笑んでいたという、そんな感覚で。

それは”言葉のない言葉たち”だと、私は勝手に決め込んでいる。

その言葉に対して、なんでも言葉を返す必要はないと思うのだ。その文字に対して、なんでも文字で返す必要もないと思うのだ。ただ、黙って受け入れる。そういう会話も時として必要だ。

微笑みってとても不思議。悲しい時も、うれしい時も、いつも一緒になって、私たちの心を安堵させてくれる。そう言えば、あまり微笑む人を見なくなったなぁと接客をしていてよく思うことがあった。(そう言う私もあまり微笑んでいないので、偉そうには言えないけど。)

レジに商品を持ってくる時も、お金を渡す時もお釣りを受け取る時も、”ありがとうございます”って店員が言った時も。なんだか自動販売機でジュースでも買っているかのようだ。微笑みもなければ、そこには言葉さえ存在しない。

これは”言葉のない言葉たち”じゃない。それは機械に話しているようなものだ。ほんの小さな会釈でも笑みだけでもいいのにと思う。もちろん、不愛想な店員もいるし、どっちかが悪いってことではない。私たちの疑問は、そのままお互いの問題になる。不思議なものだ。

人の声や表情には温度があると私は思う。それは見えないとても暖かな温度。まぁ時には冷たくなることもあるかもしれないけれど、あの暖かさは、いくらどんなに素敵な文章を綴ったとしても、あの温度ほど、多くを伝えることはないだろう。

もっと人は、その声と表情を、うまく使えたらと思う。この心を鏡のように映す声とその表情。決して偽りなんかじゃなく。

「もう、わしはそこまで生きていないからなぁ」

年老いた人は、そう言いながら
かすかに微笑んでいる。

その言葉を思い浮かべるたびに
私は次の言葉が見つからないでいる。

微笑みの中の”言葉のない言葉たち”
どんな温度で私たちに
何を伝えてくれるのだろう。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一