言葉のキャッチボールとグローブ。

言葉のキャッチボールなんてことをよく言われるけれども、本当にキャッチボールをするように、大切な人と言葉を交わせたらと思う。

本来の意味とは、多少ずれるかもしれないけれど、言葉のキャッチボールをするには、そのボールだけではなく、互いに同じグローブが必要ではないのだろうかと私は思っている。

グローブを持っていないと、それがちゃんと心地よくその人に伝わらない。例えば素手の人にいきなり言葉を投げたりしたら、その人はきっと驚いてしまって、たぶん、苦痛しか感じないだろう。

ボールが言葉なら、グローブはきっと、それを受け止める想いの形だ。

相手にも同じ受け止める想いの形がないと、それはただの痛み(憎しみ・哀しみ)にしかならない。強く投げればその痛みが、弱く投げれば想いは届かない。たぶんそれと同じことだろう。

毎日のように訪れる苦しくも悲しい不安な日々。そんな中でも、出来るだけ私は言葉のボールをゆっくりと、それでいて、心地よい音が聞こえるほどの力でその人に投げてみたいと思う。

そうすれば、その人も同じようにボールを返してくれるだろう。そんなふうに、同じリズムで、同じスピードで、同じ強さで、言葉のキャッチボールが出来たなら、心地よく会話は弾んでゆく。

それでも人の気持ちは流されてしまうから、不機嫌な気持ちのままに強く投げてしまうことも、時として鬱な気分で力なく届かないこともあるだろう。

そんなとき、大切なのは相手が同じグローブ(想い・気持ち)をちゃんと持っているのか?そして、同じスピードで投げる力があるのか?ということだと思う。もしもグローブを持っていなければ、今は言葉は投げないほうがいいのかもしれないし、届かなければ、ゆっくりと時間をかけて伝えることも大切だろう。でも、それを見極めることの難しさを、私達はこの生活の中で思い知らされている。

もしも、大切な誰かの言葉が、疲れて私に届かなかったり、全然、違う場所に飛んで行っても、私は思いっきりそこまで走って、それでも受け止めたいと思う。そしてもしも、その人が元気をなくしてグローブも失くしたなら、元気な私が自分のグローブを貸してあげて、それでもその人に伝えたいと思う。

そうして時には怪我をして、泥んこになったとしても、お互いがそのとき笑い合えたなら、きっとボールはとても軽くなって、いつでも届くようになるのだと思う。

それでも立ち直れないほどの悲しみができたなら、もはやボールもグローブも何もいらない。ただ、静かに寄り添えばいい。

言葉はいつしかいらなくなる。
そして言葉は静かに姿を変えてゆく。

それがたぶん、ひとつの愛だ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一