Re: リトルターンと影の存在。
それぞれに見えないものがあって、それぞれに見えるものがある。それは人生でとても大切なこと。先が見えない不安なあなたの、何かのヒントになれば幸いです。
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昔、作家の五木寛之さんが、テレビのインタビューに答えられていて、その時に著書の「リトルターン」が紹介されていた。
ターンとは鳥のアジサシのことだそうだ。ある日突然、空を飛ぶことの出来なくなった彼(アジサシ)は、はじめは”何か外側が壊れているのだろうか”と考え始める。そして、悩むうちに彼は”内面に問題があるかもしれない”とある日気がつく。そして、いろいろな仲間と出会い自分との葛藤の日々の旅をはじめるのだが…。
やがて、彼は自分の影の存在に気づく。その影から彼はこう考える。自分がなくした心の内面とは、きっと失われていたのではなくて、置き去りにされていたのだと。そして、影は今まで自分にとって存在していないものに見えたが、そこにちゃんと存在している。何もないものの中に、確かに存在する。彼はそれに気づいたのだと。
これが、その本の大まかな内容。
見えないものの中に、確かに存在するのもある。その存在に気づくことの大切さをこの本では語っている。
テレビの中で、五木さんはこうおっしゃられていたと思う。
「空を飛ぶ鳥は確かに、遠くまで見渡すことが出来るかもしれない。地上にいるものよりも、その視野は広いかもしれない。でも、自分の影を見ることは出来ないのです。地上にいる飛べない鳥は、確かに空を見渡すことは出来ない。でも、自分の影を見ることは出来る。空を飛ぶ鳥はそれを知らなくて、空を飛べない鳥は影というものの存在を知っている。つまり、それぞれが見えないものの存在を知っているということなのです」
互いに見えないものの存在があるということに、とても私は共感した。つまり、空を飛べようが、飛べまいが、出来ることと出来ないことの、その価値は何も変わらないと言うこと。
一見これは、落ちこぼれた人達への単なる慰めの言葉に聞こえるかもしれない。けど、私はそうじゃないと思う。これは本質的なことなんだ。見えないものの存在を、私も今、一生懸命に探しているところだ。
例えば、頭痛やめまいがひどくて医者に診てもらったとする。医者はどこも悪くないという。でも、確かに本人にしてみればひどい頭痛がする。実はその人の心の内面がズタズタになっている。でも医者はそれに気づかず、どこも悪くないと言う。
ちょっと語弊があるかもしれないけれど、どんなに偉い医者でも基本的には、その体しか診ることが出来ない。つまりそれは目に見える存在。しかし、目に見えない心の内面は、なかなか診ようとしない。いや、なかなか見えない。私たちも、実はそれと同じことが言える生き方をしているような、そんな気がしてならない。
確かにお金や地位や名誉は大切だろう。でも、それは決してこの人生の目的ではない。わかっていても、いつしかそれを忘れてしまう。きれいな花を見たときや、美しい絵や歌を聞いたとき、たくさんの愛情を受けた時。私たちは、たくさんの喜びとともに幸せを感じることが出来る。
喜びや幸せは、目には見えないけれど、その存在を感じられる。目に見えないものの大切さ。それに気がつくことが、本当の人生の目的なのではないだろうか。
こんな心の内面の問題って本当に難しい。こうして書いていても、私の言いたいことがうまく伝えることが出来なくて、とても歯がゆく感じる。
確かに私たちは生まれようとして生まれたわけじゃない。しかし、この時代に生まれたことに私は何か意味があると思う。今の世の中は、知らないうちに暗い底へと突き進んでしまった。知らずに走り続けた私たちは、この心を見ることはなかった。
今はそのチャンスなのだと思う。
自分が存在する理由が、見えない中に確かにあると、私は信じていたい。たとえ空を飛べなくなったリトルターンの鳥だとしても、自分の影を知っている、その誇りを捨てない限り。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一