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あの頃の引越しと後悔と。

これはもう、昔のこと。私の転勤のため、奥さんと二人で引越し先の物件を現地で見て決めたときのこと。その物件は家賃が希望通りの安値だったけれども、子供たちが通う小学校は、結構遠くだった。それでも仕方がないとあきらめて、安い家賃の物件を優先したのだった。

その翌日は、いつもと変わらぬ朝だった。うちの奥さんが私に何か言いたそうにしていた。私も何か言いたい気持ちだった。それは、たぶん同じことだろう。でも、いまさらどうしようもないことだった。

「昨日、決めたあのマンションだけど…」うちの奥さんが一点を見つめながら話しを切り出した。「小学校、遠いね。まーちゃんが可愛そうね」そう、つぶやいた声が少しだけ、震えていた。

「でも、もう昨日、決めたじゃない」

コーヒーを飲みながら、私は彼女のその言葉を打ち消した。しかし、彼女は、耐えられなかったのか、思いがけずその目に涙があふれていた。

「私達って、お金のことや、自分達の生活の便利さばかり考えて、子供達のこと、よく考えていなかったんじゃない?少々家賃が高くったって、学校の近い場所にしてあげるべきじゃなかったんじゃない?」

彼女は、私を責めると言うより、自分を責めているようだった。昨日の夜からずっと悩んでいたのだろう。

「どうしたの?お母さん。お父さんが怒ったの?」何もわからない4歳の息子が、彼女に問い掛ける。「違うのよ。お母さんが悪いの」一言、彼女がつぶやいた。「いや、違うよ。お母さんが悪いんじゃないよ」そう、息子に言い聞かせ、私は立ち上がった。

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その約2時間後、私は新幹線の中にいた。もう1度、転勤先の物件を探すために。家族を幸せに出来なければ、私の存在などまったく意味がないことなのだ。

その2時間の間に、私は不動産屋に電話をして、昨日の物件を白紙にするように無理やり頼んだ。そして、今からもう1度そちらに行くから、物件を探して欲しいと頼んだ。少々高くなっても構わない。学校が近くて、安心して子供が通える場所を第一優先にした。今思えば、なんとも無謀なことをしたものだ。

不動産屋も困っていた。「昨日決めた物件を今から取り消すと、希望の入居日には間に合わなくなるかもしれませんよ」そう電話で私は言われてしまった。その言葉に、今の私は負けるわけにはいかなかった。「とにかく今から伺います!」そう言って私は電話を切った。

今度は私ひとりで不動産屋へ行くことにした。子供が学校に行っていたので、彼女は家に残ってもらうことにした。「ごめんね。お父さん」彼女らしくない気の弱い言葉。悪いのは、物件を一方的に彼女に任せてしまった私であり、そして、転勤しつづけなければならない仕事に就いている私のほうなんだ。

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転勤先は、幸いなことに、新幹線で約2時間のところだった。昼から行っても、なんとか今日中に帰れる場所だった。実は不動産屋にも、少なからずも非はあったのだった。昨日、彼女と物件を見ていたときに、もうひとつ学校に近い物件があったにもかかわらず「条件に合う物件はここだけです」とそれを紹介してくれなかったのだ。さっさと、昨日の物件に決めて欲しかったのかもしれない。

「この物件は、めったにない、いい物件ですよ」

昨日の不動産屋のそんな言葉が、同じ接客業の私にとっては白々しく聞こえていた。その物件は、少し家賃が高いので、私達の希望ではないと勝手に判断をしたようだ。

「どうして、昨日のあの時、紹介してくれなかったですか?」電話をしながら、私は怒りたい気持ちだったが、謝ってくれたので、なんとか気持ちを落ち着けた。

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約2時間、新幹線に揺られ、やっと昨日の不動産屋の事務所に着いた。担当の女性が、「遠いところから、わざわざすみません」と頭を下げていた。「こちらこそ、昨日、一度は決めたのに申し訳ありません」と私は答えた。もう、そんなことはどうでもいい。私は早く家族が安心して住める場所を決めたかった。

早速、その物件を見に行った。やはり、学校が近くて、駅にも近い、いい場所だった。幼稚園も小学校と一緒になっており、子供にとっては、とてもいい環境だった。しかし、問題はあった。少々家賃が高いこと。

私は彼女と電話で連絡をとった。

「いいよ。そこに決めよう。もしものときは、私も働くからさ」そう彼女は言ってくれた。「そこまでしなくたって、なんとかなるさ」私はそう言って、不動産の担当者に伝えた。彼女の電話の声が、私の背中をポンと押してくれた。「ここに決めます」と。

しかし、話はここで終わらなかった。大きな問題が出てきた。この物件に決めたのはいいが、肝心の大家に連絡が取れなかった。担当者が電話をしたが、大家が留守のようだった。不動産の担当者は「大家さんに連絡をとって入居の許可を頂かないと正式に契約が出来ない」そう私に言った。

あまりの不動産屋の段取りの悪さに私はいい加減に怒りたい気持ちだった。「じゃどうすればいいの?」私は尋ねた。「他の物件も探してみましょうか?もう、ないとは思いますが・・・」その言葉に私はもう、怒りを我慢するのは限界だと思った。やっとこちらが物件を決めたにも関わらず、”他の物件を探しましょうか?”まったく人の気持ちを考えていない言葉だった。

私はここで怒鳴ってしまおうと思った。しかしそれでは自分の思いどうりにならないが為に、ただ怒鳴る単なるクレーマーに自分がなってしまうような気がした。

「大家と連絡が取れるまで、私はここで待ちます」

その気持ちとは裏腹に私はとんでもないことを言っていた。なんてことだ。同じ接客業にいる者は、こんなとき損をしてしまう。

「なんとか大家に連絡を取りつづけてみます」そう担当者は言っていた。本当はあきれていたのだろう。いつまでも待つさ。新幹線の最終便に間に合えばいいんだ。

そう私は覚悟した。

待つこと2時間、ようやく一本の電話が入った。担当者が、急いで電話を取る。「そうですか!ありがとうございます!」その言葉に、私のあてのない待ち時間は終わりを迎えた。大家と連絡が取れたのだ。

そうしてやっと契約が成立したのだった。

その日はとても長い一日だった。
家に帰ったのは、もう夜の9時を過ぎていた。
昨日以上に疲れてしまった。

「ただいま・・・」

そう言って私は家のドアをゆっくり開けた。

「お帰りなさい!お父さん、お疲れさま、今日はありがとう!」
彼女と子供達が、玄関まで笑顔で迎えてくれた。

私は確かに見つけていた。
幸せは、いつもココにあると。
ありがとう。
この幸せは、僕がずっと守り続けるよ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一