見出し画像

言葉という名の心象風景。

私は今、このnoteにエッセイを書いている。エッセイの定義は正確には分からないけれど、私にとってのエッセイは、いくつもの過去の思い出だ。その思い出の中で思ったこと、感じたことを私は日々、書いている。

これらのエッセイは、休日や、時間があるときに書いたものを下書きにまとめている。そして何日か寝かした後で、また再読し、「よし、いいだろう」と思ったものを選んで投稿するようにしている。

だから日記のように、その日に書いたものを、すぐに投稿するということはあまりしないでいる。どうしてそんな手間のかかるような形なのかと言うと、それはもう10年以上前のこと、私がホームページ上で日記(その日の出来事)を書いていた頃、私の書いた日記で見知らぬ誰かを幾度か傷つけたことがあったからだ。

当時、私の日記を読んだ読者から、その感想を知らせる手段は、唯一、メールと掲示板だけだった。私の日記で誰かを傷つけたり、不快にさせてしまったことが何度となくあった。あの頃、ただ、読んで欲しいがために、ウケを狙ったものや、ちょっと大袈裟に書いたものも正直、あった。あの頃の私は本当に、まだ何も知らない若者(あるいはバカモノ)だったなぁと思う。

読者からのメールでそれを見つける度に、その間違いに気づかなかったこんな自分自身に対して、腹が立って仕方がなかった。でも、読まれた日記はもう決して、後戻りは出来ない。どうあがいても時は二度と、巻き戻すことは出来なくて・・・ただ、そのメールを前にして、途方に暮れてしまう私だった。

もちろん、すべての人に好かれようなんて、私はまったく思ってはいない。というか私には無理だ。どちらかといえば、何かが足りないほうだから。でも、そのたった1通のメールの後ろには、メールさえしなかった数多くの人達の言葉にならない苦しみが感じられて「たかが1通のメール」・・・とは、どうしても私は割り切れなかった。

そのメールが真剣であればあるほど「ごめんなさい」の一言で済ませられるものとは思えない。(もちろん、内容にもよるけど)

接客業でのクレーム対応の基本として、客先訪問が鉄則になる。それは、お詫びというものは、相手にメールや手紙だけで”ごめん”という言葉だけを、その人に読ませるものではなくて、相手に”ごめん”(申し訳ございません)という言葉を、直接伝えたい思いが私たちにはあるからだ。

つまり、顔の見えるお詫びでないと意味がない・・・心から通じない・・・そう、私は感じているのだ。

でも、このネットの世界では、それはほぼ、不可能に近い。そこに私は心から謝り切れないという苛立ちを感じ、また、その苛立ちを感じた自分自身に対して、また、更に苛立ちを感じてしまう。そうして私は、果てのない砂漠を歩くかのように、どこへも辿り着けなくなってしまうのだ。

あの頃、私は日記を書いていて、時としてこんなふうに思うことがあった。言葉は・・・この言葉たちは時として私達に、いろんな誤解や哀しみを、与えてしまうこともあるけれど、それとほぼ、同じ数だけの喜びや幸せも与えてくれる。

それが、あの頃の私が書き続けた日記の答えなのかもしれない。

今日も私は言葉を使って、このエッセイを書いている。いや、それは正しくは、言葉を使ってこの日常を描いているのかもしれない。

その絵を目では、決して見ることのできないものだけど、それぞれの人達が感じたままに、私の言葉を描いてくれたら・・・たとえそれが、私とどんなに違っていても・・・その絵は私のかけがえのない、ひとつの宝物になる。

そのひとりひとりの絵の具は、きっとそれぞれに、美しい色彩を放つのだと思う。みんなが輝ける色彩を、みんなが、それぞれに持っているんだ。

明日はどんな色彩が、あなたの心を彩るのだろう。そんな楽しみを抱きながら、今日も私は、いろんな言葉を、そして文章を描き続けてゆく。

言葉という名の心象風景を。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一