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私から逃れたいから。

心の傷は、どうして他人に見えないのだろうかと思う時がある。体の傷だったら、誰にでもわかるのに。

包帯なんかしてたら「どうしたの?」って聞くことも出来る。傷口から血がちょっとでも流れていたら、それを拭いてあげることも出来る。「痛くない?手を貸そうか?」とやさしく声をかけることも出来る。

でも、心に負った傷は何もできないままで、そんな自分の心にさえ、他人は気が付かないで。そして平気でくだらない話に笑っていたりする。今、自分はそんな気分じゃないのに。こんな時、作り笑いをしている自分ほどつらいものはない。

私は、あれはあの人の間違いだと思っていた。だから、あんなふうに私はその間違いを、なんとなくみんなに示したつもりだった。決してあの人を非難しているわけじゃなくて。だから、私はべつにあの人のことを何も言うつもりもなかった。あの人が「あの時はすまなかった」と言ってくれたなら、”別にそれはもういいよ”みたいな気持ちでいた。

しかし、私の思いはまったく違っていた。
あの人は、私にこう言った。

「あんなことをするんじゃない!迷惑だ!」

そんなふうに言われて私は言葉をなくしてしまった。あの人の怒りは、私の心を鋭利なナイフで切り裂いた。あの人が私に謝ってくれるだろうと思った自分の甘さを憎く思った。私は、ひとりで勝手にあの人に裏切られたと思ってしまった。その言葉に、私はあの人に反論する余地はあったが、私に向けた誰かのその怒りの言葉に、いつも私はこう思う。

「私が間違っていたのだろうか・・・」

大人になればなるほど、物事が複雑に絡み合って、すべての良し悪しがわからなくなってしまう。本当は何が正しいのか、何が間違いなのか。私はただ、途方に暮れてしまうだけだ。あの時、私はその人の前で、怒りをぶつけることも出来たが、果してその怒りが正しいのかさえ、自分自身に自信がなくなる。私は自分の怒りそのものが、いつも間違っているような気がする。

私の怒りの後で、相手に「ここがこう間違っている」と指摘されたら・・・私は引っ込みがつかないまま、その人の心を傷つけてゆくのだろうと思う。それが一番私は怖い。

自分の心の中に、自分がどう他人に思われているかばかり気にしている自分がここにいる。なんて小さな自分だろう。

大切なのは、他人にどう思われるかじゃなくて自分がどう思うのか?ということのはずなのに。

・・・・・・・・・・・・
これはもう、遠い昔の話。
それでも消えない思い出。

70代くらいのおばあちゃん(お客さん)から電話があった。昨日買ったばかりのラジカセが動かない!と怒っていた。

「新品と交換して!まともな商品をちょうだい!」
そう怒っていた。

”ちょっと待ってよ”と私は思った。そんな言い方はないだろ?とも思った。(いくらお年寄りとはいえ。)昨日、そのおばあちゃんを接客をした係員が私にこう教えてくれた。

「昨日もちゃんと使い方を説明したのに・・・きっと使い方を間違えていると思うよ」

私はおばあちゃんに、もう1度使い方を確認してもらった。電源コードはちゃんとつながっていますか?テープは入っていますか?スイッチはちゃんと奥まで押していますか?など。どれもちゃんとしていると言う。

「それでも動かないのだから不良品だ!」とまた怒鳴っている。

なんで私がこんなに叱られないといけないのだろうか?と、ふと、私はその時思った。なんでだろう?こんなクレームはいつものようにあることなのに、ときどき私は虚しくもこんなふうに思うことがある。接客は、理不尽なことも筋が通らなくても結果として、お客様に自分が頭を下げなければならないと思うとき。もしかしたら、私は何が正しくて何が過ちなのかを判断する脳の一部が、こんな接客をしているうちに麻痺してしまったのかもしれない。

電話では見えない分、なかなか原因がわからなかった。おばあちゃんは、「どうしてすぐに交換してくれないの?誠意がないわね」と言う。私はべつに交換する事は一向に構わないのだが、その原因が知りたかった。交換しても、その原因がつかめなければ、また同じことの繰返しなのだ。

おばあちゃんと話しているうちに私はある点に気が付いた。「もしかしたら、一時停止ボタンを押していませんか?」と。そのボタンさえもなかなかわかってもらえなかったが、結局は、このボタンのせいで音がならなかっただけだった。

「あ、音が鳴ったわ」
そう一言漏らしただけだった。ありがとうの言葉もなくて。そして、そのおばあさんは、次にこう言ったのだ。

「録音の仕方を教えてよ」

なんだ?さっきまで”不良品を売っておいて!なんだこの店は!”みたいなことを言っておいて、その言葉に対してなんとも思っていないのか?おまけに「録音の仕方を教えてよ?」電話で説明するのがどれほど大変かわからないのだろうか?

「〇〇の店は、ちゃんと親切に教えてくれたのよ。あなたは教えてくれないの?」その言葉は、どう考えても私に対しての嫌味な言葉だった。

「わかりました。親切に教えましょう」

そう答えた。力をこめてはっきりと。私の中で、止まらない何かがどうしようもなく動き始めていた。

私は録音の仕方だけじゃなく、すべての仕方をひとつひとつ説明した。お客と店員ではなくて、お客が生徒で私が先生みたいな感覚で。説明のなかで私は「どうしてわからないのですか?」と時々言っていた。おばあさんが「もう、わかったから説明はいい」と言っても私は説明を続けた。「いえ、ちゃんとわかってもらわないとまた不良だと思われしまいますから」そうも私は言っていた。

私の何かは、どうにも止まりそうになかった。それでも私は説明を続けた。おばあさんに何度も同じことをさせていた。もう、30分以上も私はおばあさんと話続けている。

やがて、おばあさんがつぶやくようにこう一言、私に言った。

「もう、疲れた・・・」

その言葉に、私はやっと目が覚めた気がした。お年寄りを相手に私はなんてことをしているのだ。

「すみません・・・」

私は一言、つぶやくようにそう言った。”やり過ぎた” 心の中で私は後悔をした。私の傷ついた心が、こうして弱者に対して刃を向けていたなんて。私は気付けば、取り返しのつかないことをしてしまっていた。

どうにも止まらない私の中の
何かが音もなく静かに止まった。

「あなたは誠意を込めて教えてくれたからいいの」

おばあさんのその言葉に、私は素直に喜べなかった。きっと、こんな私から逃れたい言葉にすぎないと思ったから。私のことを誉めた言葉じゃなくて、ただ、逃れたいから。

私から逃れたいから・・・。

私は電話を切った。

日曜日の午後のざわめき。
まわりでは、みんなが一生懸命に接客をしていた。

私は涙がこぼれそうになった。

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最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一