不完全な言葉と補う心。

時々、この先の自分の人生を
”もう、どうでもいいや”と思うことがある。

こんなことを書いてしまうと
なんだか私が随分と
思い悩んでいるように感じるかもしれない。
けれど、そうとは限らない。

たとえばこれが、広い草原に寝転んでいて
澄み切った青空を眺めているときに
そう思ったなら
それは微笑ましい感情になるし
たとえばこれが、ビルのてっぺんで
蟻んこのような人々を眺めてそう思ったなら
随分と深刻な問題になる。

言葉の持つなんという不完全さ。
足りないだけで
その受け止め方はまったく違ってくる。

だから、私はこう思う。
あの人が言ったあの言葉も
何かが足りないだけかもしれない。
本当は伝えたかったのに
言えない理由があったのかもしれない。

もしそうなら、なんて愚かしいことなのか。
勝手に傷ついたその心は
全く意味がないのかもしれない。

以前のエッセイで、人を憎む心の仕組みを
私なりの考えで、こんなふうに書いた。
これが正しいとは思わない。
けれども、ひとつの考え方だと思ってる。

足りないものは、この心で補うしかない。
自分の言葉で補うしかない。
日記のように手紙のように
電話を待つような気持ちのように。

だから私はいつだって
花に水を与えるように
いつも心を補うように
やさしい気持ちでいたいと願う。

それはなんて難しいこと。
でも、とても簡単なこと。
それは自分の心が決める。
誰かを勝手に憎まないために、
誰かを勝手に傷つけないために。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一