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絵本と言葉が伝えるもの。

昔、子供によく寝る前に絵本を読んであげていた。布団の中で読む絵本はとても気持がいい。あの頃、もしかしたら、子供たちよりも私の方が、絵本が好きだったかもしれない。

私は絵本のあの素直で単純なところが好きだ。そのシンプルな文と絵から思うままに、自由に喜び悲しみを感じることができる。

例えば「私はおかあさんがすき」という文だったとする。

好きと言う言葉の中には”どんなふうに好きなのか?”どのくらい好きなのか?”また”なぜ好きなのか?”お父さんはどうなのか?” ”昔から好きなのか?など、そこにはいろんな意味と問いが生まれてくる。

小説では、その言葉の意味をいろいろな表現を使って表す。その表現方法の豊かさが、その作者の力量と言えるのだろう。そこには「自分はこう読み手に感じて欲しい」という意図があるのかもしれない。そして、私たち読み手は、まんまと作者の意図にはまるのかもしれない。(それはもちろんいい意味で。)

でも絵本の世界は違う。「私はおかあさんが好き」この言葉だけでいい。そこには何も飾らなくていい。”どんなふうに好きか?”は絵を見て自分で自分の感情と照らし合わせてゆけばいいんだ。

たとえば小さな女の子が、お母さんを思いっきり抱きしめて、笑っている絵だとしたら「あぁ、本当にお母さんが好きなんだな」と心で感じる。

言葉だけで多くの感情を抱くこともできるけれど、絵を見るように、自分の目からいろんな風景を感じることのほうが、大きな心の広がりを持てるのではないかと私は思う。

すべて否定するつもりはないけれど、SNSがこんなにも広がってしまったせいか、私たちは、あまりにも文字や言葉を頼りにし過ぎているような気がする。

言葉なんてあやふやなものだ。人の言葉は誰かを幸せにしたり、喜ばせたりして、すばらしい力を発揮することもある。けれども、逆にその言葉に傷ついたり悲しんだりして、眠れない夜を過ごす人もいる。

その言葉を使った本人にしてみれば、それほどの意味がないこともよくあること。受けた自分が勝手に作った言葉の意味で、傷ついているなんてこともある。これは言葉をあまりにも頼りすぎたための過ちなのだと思う。

「そんなつもりじゃなかった」
 
そんな後悔は、そのとき起こるものかもしれない。

相手がAという意味の言葉をその人に投げたとする。受け取った人は間違えて、Bという意味に変換している。逆にBという意味を伝えるのに間違えてAという言葉を投げてしまうこともある。

そのときだ。

人が「わかり合えない」という現象が起こるのは。

言葉が何かを伝えるとしても、人はそれをうまくは選べない。そして誰もが同じ意味として、うまく受け取るとは限らない。

言葉は言葉でしかない。便宜上、人は使っているだけで、言葉はその真実のすべてを語っているわけじゃない。人は言葉だけではなく、もっと違った形でその心を、伝えることが出来ればいいのにと思う。

もしや絵本は、その小さな可能性のひとつを、どこかに秘めているのかもしれない。

思いがけない誰かの言葉やその文字に、傷ついたり憎んだりする前に、少しだけ呼吸を整えて、「心が間違えてしまったかも…」と、静かに自分に問えばいい。その間違いは自分かもしれないし、相手かもしれない。

たぶん答えはすぐには分からない。
だから距離と時間を置いて、できればその人に会いにゆけばいい。

私たちは、うまく言葉を選べなくても、たとえ間違って投げたり受け取ったりしても、その笑顔でその涙で、その現実の風景の中で、間違いを正してゆけばいいんだ。

それはただ、心が感じるままに。

幼い頃、絵本を見ていたように、汽車の窓から外の景色を見ていたように、風を感じて季節を感じて、そして胸いっぱい空気を吸って、この心に気づいてゆこう。

本当に大切なことは、たぶん
手のひらの小さな画面では見つけにくい。

見上げれば、いつだって、空は広がっていて
誰かの笑顔や涙があって、そのとき心は

きっと教えるくれるはずだから。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一