開闢の箱

今でもたまに思い出す
ずいぶんと前に同棲していた女。
歳上の女で、いわゆる俺は養ってもらう関係だった。俺は彼女と結婚する関係にはならないと思っていて、おそらく彼女も、その事を勘づいていたように思う。いつか終わるこの関係を俺はだらだらと続けていた。終わりは向こうから一本の電話だった。必ず来ることはわかっていたけれど、歳月にして2年。長かったような短かったような。彼女との記憶は俺の人生にとって、とても有意義な良い時間だった。彼女の貴重な時間を頂いていた事に、今でも感謝をしている。だからその時は涙は流れなかった。

ふと
彼女の名前をSNSで検索していた。
結婚したのかな?
彼氏できたのかな?
大切にしていたあの趣味は、
まだ続けているのだろうか?
俺という時間だけを毟り取るヒモから離れて幸せになっているといいな。

そんなことを
二度と会う事はない。それは当然として、でもなんでかふと気になってしまって、俺は検索をしていた。


おそらく彼女であろう俺の知る趣味のアイコンを見つけ、中身を覗いてみる。そこには全く知らない顔の女の人の写真があった。



俺の知る彼女はブスだった。
彼女と出会った時、真っ先に思った事だった。なんとなくフィーリングが会うから、そしてただ都合がいいから、顔はブスだけれど、養ってくれるし、甘やかしてくれるし、俺のわがままに、わざわざ俺のためを思って泣いたりする。俺にとって、俺の人としての自尊心を保てる存在だった。しかし、美人で都合の良い女が現れたらすぐに乗り換えよう、そうはじめは思っていた。彼女はブスだから、一緒に写真を撮りたいとは思わなかったし、知り合いに写真見せてよと言われても見せたくなかった。

彼女自身もそれを思っていて、ずっと自尊心が低いままだった。私はブスだから…といつも自分を卑下していた。単純に俺がそんな事ない、可愛いよ、といえばよかったのだろうけれど、そうはしたくなかった。俺は彼女の自尊心の低さにすごくムカついていた。ずっと我慢していたが、ある時、「正直君はブスだよ」と話した。それは実に傷ついていたようだったけれど、そんなことは関係ない。ブスな表情が僕は一番嫌だった。「君の笑顔が俺は好きだから、どうか笑っていてほしい。」と言った。

仕事の関係の人に、一緒にいるところを見られたことがあり、「お前の彼女ブスだなー」と言われたことがあった。
凄く悔しかった。自慢の彼女です、だなんて言えない自分に。ブスなのは俺が一番知っていたけれど、なんかその事を人から言われると無性に腹が立っていた自分がいた。「そんなことないですよ!」と反論している自分もいたが、仕事関係だし、いつも飲み込むことにしていた。
その日あったこと、その日に思った事はなんでもすぐに彼女に言っていた。彼女はいつもうんうんと話を聞いてくれていて、酔っ払いな僕をいつも介抱してくれていた。だが人に彼女を貶されたことだけは絶対に彼女には言わなかった。ブスには違いないけれど、この俺がこの手で、時間の許す限りこの女を育成し、誰がどう見てもイイ女に見えるよう、仕立て上げてやると強く決めたのだった。
それは別に整形をさせるのでなく、メイクやファッション、髪型、食事の所作法、立ち振る舞いに、表情であった。基礎教養も仕込んだ。俺が教える、のではなく、なるべく内発的動機付けとしてそれに取り組んでもらえるよう、遠回しよりもより、遠回しに言葉を選び誘導し、時に意図的に傷をつけ過剰自己修復という形で変化を促していった。
彼女はみるみると変わり、いつか関係性が終わるのが自分でも辛いと思えるところまで磨くことができた。それでもブスには違いないかもしれないけれど、初めて会った時とはまるで別人なのは明白だった。そこまでの過程を俺がこの目で全て見てきた。俺はそれが誇らしかった。

そして来るべき時が来て、会う事も、連絡をすることもなくなり、彼女はラインを消し、俺はSNSを消していた。俺はてっきり対面で別れを告げられるものかと思っていたので、最後の電話は、俺は彼女の言葉を聞いてはいたものの、実は今あまりはっきりとした記憶はない。彼女からは笑みのあるサヨナラを聞いたような記憶はある。



おふざけで芸名で始めたSNSは全く更新をしていなかったから、もう使い方は忘れてしまっていて、何故わざわざ手間取りながらも、その終焉の箱を開けてしまったのか、分からないが、その知らない顔になっている彼女を見て俺は今までに抱いたことのない感情が湧き上がっているのを知った。表現し難い。語彙力が追いつかない。

写真の女の人は笑顔なのだけれど、どうも開口された大きな瞳に覗く黒目からは色が見えず、頬肉が皺く引きつったようにしか見えず、鼻筋は立体であるにも関わらずボールペンで陰影を書き込まれたかのように平面体に見え、しかしそれは顔だけでそれ以外の二の腕や、肩幅、背丈は強く惹きつけられる様な既視感があり、調和された記憶とねじ曲げられた記憶が首目を境に分断されており、みたことのない人の笑顔をSNSで見かけただけ、なのにもかかわらず、突発な脳症が引き起こされているように俺の視界はぐらついていた。

「わたしには家族にも、この顔にも思い入れはない。」


そんなような事をいつしか彼女が言っていたのは覚えている。あの頃から何か決めていた事なのだろうか。


俺の記憶の彼女はブスだった。
ブスの彼女しかしらない。このSNSに存在していると表示されている彼女は、俺の知らない人間でだった。当然のことだ。それが顔を作り替えるということだ。彼女は俺と他人の関係になって、読んで字の如く、生まれ変わったのであろう。

俺はパニックになってしまって、俺の記憶が本当なのかどうかも疑わしくなってしまった。

わけが分からなくなってしまって、俺は必死に、俺が知る、検索した名前の女のブサイクな泣き顔と明るく可愛いブスの笑顔を思い出していた。その女と別れて初めて涙が溢れていた。

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