夢見りあむを「理解(わか)る」ための平成オタク史

架空の美少女は電子アイドルの夢を見るか?

アイドルマスターシンデレラガールズの登場人物、夢見りあむのシングル曲「OTAHEN アンセム」がその衝撃的な歌詞と曲構成で話題になっている。アイドルマスターシンデレラガールズの「シリーズ主題歌」とも呼べる「お願い!シンデレラ」を正面からパロディ化し、「お願いタヒんでくれ」と歌っている姿に、驚きを通り越して怒りを感じているオタクが多いようだ。私は「夢見りあむ」という現象を理解するためにはこの国のオタクが、もっと言うと90年代から10年代にかけてのポップカルチャーが、どのような道をたどって現在にたどり着いたのかを理解する必要があると考えている。一緒にオタク・タイムトリップをしましょう。

1991年、この国の人々は大事MANブラザーズバンドと共に、「負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じぬくこと」と歌っていた。決まったレールの上を、「とにかく頑張ってあるけば道は拓ける」のがこの時代の空気だった。このように、誰もが持っているような「生きる意味」や「みんなが信じる価値観」を、特に社会学の文脈では「大きな物語」と呼ぶことが多い。

ところが、1995年「頑張れば報われる」というそれまでの価値観が転換される事件が2つ起こった。「地下鉄サリン事件」と「平成不況の長期化」である。不況が長期化したことで、「がんばれば報われる」という神話は崩壊した。もっとも、この頃「安月給」と揶揄されていた郊外マイホーム持ち野原ひろし氏は今では「富裕層」になってしまったが……。そしてその社会不安が、オウム真理教による地下鉄サリン事件という形で結実した。90年代半ばから日本は、「がんばっても、価値が見つからない」世界に移行していったのだ。

95年といえば、「天下一武闘会で勝てば豊かになれる」「修行すればだれよりも強くなれる」を前面に押し出していた『ドラゴンボール』が連載を終了した時期だ。文学の価値が疑われるようになって久しいが、時代の持つ空気感は、文学つまり「物語」に強く反映されるものだ。ドラゴンボールと入れ替わるように、1995年から96年に『新世紀エヴァンゲリオン』が放映された。主人公の碇シンジくんは「ロボットに乗って活躍する」、つまり「自分の力による自己実現」によってしか、自分の価値を見出せない状況に置かれた。ただし、ゼーレ(あるいは父親、あるいは社会そのもの)も信頼できる対象としては描かれない。シンジ君は動けば動くほど誰かを傷つけてしまう。そこには「頑張れば報われる」という価値観は存在していない。社会的な自己実現は信頼感を失い、「自己承認」こそが最も求められるものとして定着していった。

これは「大きな物語」の権威が失墜し、個々人の抱える「小さな物語」が価値観の中心になったことを意味する(「大きな物語」「小さな物語」は、フランス人哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの術語です)。考えてみれば昔は、「巨人・大鵬・たまごやき」が子供たちの好きなものだと決まっていた。ひと昔前のニコニコ動画でさえ、「アイマス・東方・初音ミク」がわかればだいたいの動画の文脈を理解して楽しむことができた。正月には紅白を見て、福山派とキムタク派で対立した。「物語」はごく最近まで大きかったのだ。社会全体で今は本当に「住み分け」が進んできているのが体感でもわかる。

さらに2001年以降、小泉政権による社会改革、同時多発テロなどが契機となって「格差社会」という意識が広まり、「引きこもり」が社会問題として扱われるようになった。「引きこもっていると(社会的に)死ぬ」から、皆が参加しているゲームに参加して戦わなければならない。トレンディドラマが流行れば『鳥人戦隊ジェットマン』、『ハリー・ポッター』が流行れば『魔法戦隊マジレンジャー』、世相をいちはやく反映することで実は知られている日曜朝の特撮だが、同時多発テロの翌年、2002年に放送された『仮面ライダー龍騎』では、まさにこの「戦わなければ生き残れない」という価値観が物語を支配している。戦って生き残り、自らの願いをかなえようとする物語『Fate』も2004年の作品である。

だが、オタクはそうした「戦い」から逃げたなれの果てである。クラスや塾という小さな社会の中でさえ、仮面ライダーナイトのような、自分より強くかっこいい他人が多く存在している。「戦って生き残ること」が必要とされる世の中から、オタクたちは碇シンジよろしく「逃げた」挙句、自分を肯定してくれる存在を求めた。だからこそ『Air』(2002年)を代表としたギャルゲーやエロゲで、自分より「弱い」立場の女の子と、競争のない場所へと逃避を開始した。『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)や『最終兵器彼女』(2001年)のように、ボーイミーツガールが世界丸ごとの命運を握ってしまうという「セカイ系」というジャンル(初出はネット上、最初に大きく論じたのは東浩紀とされる)は、エヴァ的な「引きこもり」価値観から文字通り「逃げられなかった」オタクがたどり着いた桃源郷だったように思われる。

そうして2005年に登場したのがアーケード版『アイドルマスター』である。「『アイドル』それは女の子たちの永遠の憧れ。だが、その頂点に立てるのは、ほんの一握り……そんなサバイバルな世界に、13人の女の子たちが足を踏み入れていた」戦わなければ生き残れない世の中で、かつてシンジ君に共感したオタクたちは、すでに「社会は信頼できないもの」として受け入れ、かつ「自分を承認してくれるもの」を求めて、アイドルと「戦わなければ生き残れない」時代を共闘していくこととなった。アイマスの世相の反映っぷりといったら凄まじいものがある。初代ロケテスト版に収録されたというトラウマ必至の「Zエンド」は、「戦って生き残れなかった」惨さを示すものだったのだと思われる。

オタクが求めるものが「大きな物語」から「小さな物語」へとシフトするにつれて同人マーケットは拡大され、原典から無尽蔵に物語が生み出されるようになっていった。もはや物語は「オリジナル」である必要性すら失ってしまったのである。つまり、オリジナルの地位が下がると共に「パロディ」の地位がほとんどオリジナルと同じ域にまで高まったのだ。2011年、『魔法少女まどか☆マギカ』はこのような文脈の中で生まれた。これまで「元気な女の子が、社会にはびこる悪を倒す」という形で語られた日曜朝的な物語に「叛逆(パロディ化)」し、どこまで進んでも救いのない、暗澹たる物語が展開された。ネタバレになってしまうが、主人公の鹿目まどかは「魔法少女をそもそも生み出さない」という形で、すなわち「自らが物語になる」という形でその暗い物語に解決策を見出した。アケマス的な「勝ち残ってナンバーワンになる」という価値観からさらに変容し、これは「自分自身が物語になるしかないところまできた」という一種の諦念のように思われる。

時を同じくして2011年、『アイドルマスターシンデレラガールズ』のサービスが開始される。このゲームの特徴は、無印の『アイドルマスター』とは違って、とにかくアイドルの数が多いことだ。生き残りをかけて高い意識でアイドル活動に臨む前川みくのようなアイドルがいるかと思えば、碇シンジのように「引きこもること」でアイデンティティを確立した双葉杏のようなアイドルもいる。「逃げてきたオタク」「ゲームに参加して戦ったオタク」そのどちらをも同時に救ったのである。そしてプレーヤーはゲームに参加することで「投票権」を獲得し、アイドルの人気に直接的に貢献することができる。プレーヤーがついに、無限に生まれる小さな物語の「一部」になることが可能となったというわけだ。

2010年代のポップカルチャーに特徴的だったのは、当然ながら「大きい物語」を語るようなタイプのものではなく、「自らを物語化」することだったと言える。例えばテイラー・スウィフトが元カレとのいざこざを歌にし、エド・シーランが「女性をうまく口説けない情けない自分」を戯画化した歌で圧倒的な人気を博したように。キャンディーズがかつて「普通の女の子に戻りたい!」と涙ながらに語ったのと対照的に、AKB48は「会えるアイドル」、「普通の女の子」を標榜した。10年代のアイドルに求められるものは、「理想的な女の子像の体現」から、「個々人の持つ『小さな物語』をいかに昇華させて、大衆に共有させるか」ということへと変わっていったのだ。

アイドルマスターシンデレラガールズに登場するアイドル達が所属する346プロダクションにとって、「大衆」とはまさに私たちオタクのことである。オタクに共有されやすい物語は、物語を紡ぐ側が「オタクになる」のが一番手っ取り早い。こうして三峰結華、久川凪、砂塚あきら、夢見りあむが生まれ、オタクは自分たち個々人の「小さな物語」を彼女たちと共有した。これは765プロ(無印アイドルマスターの事務所)のアイドルにはもうできないことだ。

夢見りあむは当然ながら「大きな物語」を信じることができない。自分がシンデレラになって、ピンチやサバイバルをクールに超えたり、どんなときもキュートハートを持ったり、無敵なパッションを武器に繰り返すバトルを裸足で耐えていくことなどできるわけがないのだ。りあむは私たちオタクが、95年以来ずっと逃げ続けてきた姿そのものなのだから。そう考えてみると、『まどマギ』的に、既存の物語を「パロディ」として歌ったことにもまったく疑問がない。りあむにできるのは自分の「小さな物語」を戯画化して、オタクと共有することだけだ。その歌詞には10年代的な「諦念」が色濃く漂っている。

「OTAHEN アンセム」の中で、りあむはコールを打つオタクたちの中に紛れていく。あたかも『嵐が丘』のキャサリンが「私はヒースクリフなのよ!」と叫ぶがごとくだ。オタク!ぼくはお前たちなんだぞ!

参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン』
宇野維正、田中宗一郎『2010s』
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』
大塚英志『定本物語消費論』
志水義夫『魔法少女まどか☆マギカ講義録』

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