見出し画像

My story ③アメリカ在住7年でようやく自立した私

『なんじゃそれ!』

アメリカでの出産話をすると、よく言われます。

アメリカでの出産から、自立した自分になっていくストーリーを綴ります。

アメリカで出産したらこうなった

アイスクリーム屋と英語講師をしながらも、妊娠8ヶ月の私は英語コーチングを学びに飛行機に乗った。


一応医師のレターがないと乗れない時期ではあったので、一人デカっ腹で帰国。


そして学びを終えアメリカに戻り、初めての体験セッションを行っているとき、腹が痛くなった。


「私緊張して腹痛いのかなー」


なんて間抜けに思っていたら、体験セッションが終わっても痛い腹。


どうやらこれが陣痛だと人に言われてわかった笑。


私の出産ストーリーはプチ波乱万丈。なぜかというと、妊娠した数ヶ月前に健康保険を解約していたからだ。


病院なんて一回も行かないのに保険に払う必要はないかな、なんて気持ちで解約してしまったのだ。


ところがどっこい、アメリカの健康保険は入らないといけなくて、むしろ毎年の12月とか限られた期間にしか入れない。そこを逃すと、丸一年保険がない。。。


妊娠がわかったのが2月だったので、私は来年の1月にならないと保険に入れないこととなる。


日本に帰国して出産するか、アメリカでの自費出産か。コストを比較し、一番自分の考え方にもあっていた「自然な出産」ができるアメリカの助産院、birth centerで産むことにした。


ここは保険がなくても$7000と自費だったのだけど、病院で自費で産むに比べると安い方だった。


体験セッション後の陣痛のあと、birth centerへ向かった。

そこで水中出産のようにナチュラルでピースフルにこれぞ自然なお産〜!

と生まれるかと思いきや、深夜に到着してから翌日の朝になっても生まれない。


昼、夕方、夜になっても生まれない。あれれ。


結果、1日半経っても生まれなかった。(驚)


結果、このままだとよくないから病院に連れていくと言われたのだけど、

ちょっと待てーい!保険がありませんがな!


意地でもそこで産みたかったのだけど、流石に30時間以上陣痛が続き、私は疲れていた。


結果、病院に連れて行ってもらい、その助産師さんが付き添う中、促進剤を打ってもらった。


しかーしなかなか生まれない。おーい、赤ん坊よ。

私の体力もなくなっていた。


結果、帝王切開を進められ陣痛が48時間続いた後、やっと帝王切開で生まれたのだ。

アメリカの出産を説明すると、自然分娩は翌日退院する。

帝王切開は1,2日で退院する。2週間病院とかは、ないない。


陣痛でもちゃっかりノートパソコンを持ってきていた私は、帝王切開後の病室で早速成約した初めてのお客さんへのインボイスを作っていた笑。


休みなしでここからずーっと駆け抜けていたように思う。産休、育児休暇など、そんなものは存在しなかった。


その後も英語コーチングの講座は月1回あったので、「日帰りで」アメリカから東京へ行ったこともあった。


つまり、アメリカから飛行機で飛んで→東京で講座を受けて→そのまま空港へ直行して飛行機。


地方から新幹線で東京にいってそのまま止まらずに夜遅く帰宅する、みたいなことをアメリカからしていました。0歳児の子供がいたし、すぐ帰らなきゃと、の思いが強かった。

英語で問い合わせしまくりの日々

子供が生まれた頃と同時に、夫のアイスクリームビジネスは閉まった。

そこから考え方やビジョン、生き方に彼は変化をして私とうまく合わなくなっていった。 


ビジネスをし始めた私、母になった私は、夫に頼っていくことがどんどん減っていった。 


自分でやった方が早かったし、確実だったし、それができる英語の力もついてきたのもある。


ビジネスをするには子供のデイケアが必要だし、変なところは預けたくない。

病院関係のやりとりも全て自分でやって行った。


英語の電話対応が苦手な方は多くて私もその一人だったのだけど、

何件もデイケアにお問い合わせしたりしまくっていたためか、英語の電話が全然怖くなくなって行った。


本当に電話は自分から電話するのが億劫だったから、メールしたり直接会いに行って聞いた方が良いとさえ思っていたのだけど、

そんなの電話で済ませれば良い、と思うようになった。


この辺りから私が英語を使ってアメリカで生活することも、今までにないほど主体的に、自分でできるようになって行った。


そして息子がまだ1才の頃、夫と離婚することになった。


パラリーガルにお願いをして書類作成などをしてもらったのだけど、法律のやりとりも、問い合わせも、これまた一人でやっていき、さらにここで生きる力も英語の力も身についた。


ずっとカリフォルニアに住み続けることもできたけど、常に引越しをしたくなる私の性格と、値段が上がり続けるカリフォルニアのアパート代。

1ベッドルームでも20万くらいはざらにする。


そして昔父が、父のおじいさんが戦前ポートランドだかに住んでいたことがある、とさらっと聞いたのを思い出し、

それだけの理由でいきなりオレゴンのポートランドに引っ越すことを決めた。なんかロマンがあって良いと思ったのだ笑。


アパートも決まっていない。知り合いは一人もいない。

カリフォルニアの隣の州ではあるけれど、車では16時間。


乗っていたトヨタプリウスに乗せれるだけのもの全てと、1歳の息子と、犬を乗せて、私たちは3日かけてオレゴンに引っ越した。


家具がなかったので、持ってきたのは洋服と、鍋一つと、ガーデニング用具と、息子のおもちゃと敷布団。それでも車の中はパンパンだった。


アメリカにきた頃の自分では想像できないほど、全てのことを自分ですることになった。誰かに頼る、お願いするという選択肢がまっさらに消えた。 


日本にいれば当たり前のことかもしれない。でも、アメリカにいて保険や車、法律の手続きなど、慣れていないことはやっぱりできる家族に頼ってしまう人が多いと思う。


でもそうすると、自分のしたいようにならない。

自分の行動範囲やできることに変化がない。

その過去の延長線上での自分になるし、そんな人生になる。

離婚という決断と、オレゴンにいく決断をしてからは、アメリカで住むこと全てに置いて全て100%自分でやることが当たり前になった。

そして自分と息子が好きなように生きられるように、ビジネスをうまく行かせたり、好きな時間で好きなことをしたり。

自分の選択で、自分の好きなことをするという、そんな生き方を今できている。


誤解がないように言いたいのだけど、私は19歳の渡米の前の時点で英語は話せた。現にホテルで仕事をしていた。


そして30歳を前に結婚で渡米した時も、さらに英語はできていた。


普通に話せるし、英語でバイト指導もできるし、1万人以上にアイスクリームを売ること、お客さんと話を楽しくすることもできた。


でも、だ。


自分が好きなように自由に生きていくことを考えると、さらにまた違うレベルの英語があったのだ。


どんなことでも自分で対応していける。

知らない人とでも英語での会話を通して良い関係を作っていける。

伝えたいことを簡単にしないで妥協もしないでそのまま伝えられる。

ネイティブのマシンガン英語がスローモーションのようにクリアに聞こえる。

そんな英語が身についた。


アメリカで楽しく生きてきたと思ってきたけど、わたしの中で我慢したり遠慮したり、諦めたりしていたのが多かったんだなと気づいた。


もし私が、これまでに身につけた英語を多くの方に届けることができたら?


もしアメリカや海外で何かを我慢したり、妥協したり、色々なことを諦めながら生きている日本人が、もうそうしなくてもよくなったら? 


もし日本にいるみんなが、使える英語を身につけて、それによって人生が変わり、毎日が変わり、考え方や価値観が変わり、これからの人生が可能性ばかりのワクワクの未来になったら?


そんな方に「できるよ!」「やろうよ!」「Let's do it! 」と声をかけ

その英語の力が身につくように一緒に走り、

可能性ばかりのワクワクの未来に導く。

そして両手を上げて一緒にバンザイする。


それを私のミッションとして、これからも活動をして参ります!

最後まで読んでいただき、嬉しいです。ありがとう!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?