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My story ① ウブな大学生のLAホテル勤務

英語が話せない英文科さん

『どこに就職しよう。自分のウリに何をかけばいいんだ??』

『あり、もしやウリがない!?』

『英文科なのに、英語話せないジャないのよー』

深く考えずに大学生活を送っていた私は、みんなが就活を始める3年生を目前に、この延長線上で行けば"妥協した地味な会社員生活"が待っているような嫌な予感がしていた。

英語が好きってだけで選んだ英文科専攻の私は、ぼやっと「世界、インターナショナル、グローバル、海外転勤、海外駐在」に目を惹かれ就活をしようとしていた。

そんな中、大学の授業でネイティブの先生が仕切るディスカッションやスピーキングのクラスがいくつかあって参加していたのだけど、

中学高校と英語のお勉強しかしてこなかった私には、新しいキラキラした別世界のように見えた。

英語で話し合うとか、なんか楽しい!数秒でも英語を話せている自分になったのが、なんか新鮮でウキウキ。

そんなクラスの後には、一人暮らしのアパートへ、クラスの余韻を感じながら、足取り軽く、浮かれた気持ちで帰っていた。

この辺りから、グローバルや海外に出ている会社で働いてその環境で過ごしていきたいなら、仕事で使えるような英語が必要だよな、とモヤモヤ。

その未来のなっていたい自分像は今の延長上にはない。そこのギャップをとにかく埋めるしかない。

そして突如、大学を休学して英語修行にいくか!と思い立ったのは2年生の冬目前だった。

もちろん反対だった秋田の親に毎日電話して交渉を続け、1年間アメリカでインターンシップをするという選択をした。

夏に1ヶ月バンクーバーに語学留学をしたことがあったので、これを1年間続けても仕事で使えるような英語は身につかないと感じていたし、

何かもっと自分の力よりも上のものに挑戦しないといけないような気がしていた。

そこからアメリカへ行くことを決めてからの出発までの数ヶ月、毎日英語のトレーニングを始めた。

アメリカに行ったらこんな場面があるかもしれない。

こんな自分のことを聞かれるかもしれない。

面接とかあるのかもしれない。

ホストファミリーとかと話すとしたら、何を話すだろう?

大学の専攻とかについて聞かれたらどうしよう!?

と、思いついた度に英語で呟いたり、文章を作ったり、なり切って話すことばかりをしていたように思う。

鏡の前に立って女優のようになり切って練習もしていた笑。

結果として、この英語トレーニングはこの先10年以上私の基本的な英語力を上げる『型』となるのだけど、

基本こればかりをして私は英語を話せるようになった。嘘ではない。英会話学校も行っていない。

渡米したらムカついて毎日泣いていた

渡米したアメリカでは、まずは3ヶ月間語学学校に行き、その後インターンシップをすることとなった。(そういうプログラムだった)

そこの学校は、日本人がなんと9割。ビザのために学校に来ている方や、楽しく過ごしたい方が多く、日本語が飛び交っていた。そこはアメリカではなく日本だった。

一家の名を背負って来たかのような気合が入っていた私は(笑)ナンジャコリャー!と衝撃を受けたものの、彼女たちとは日本語で話さないと結構貫こうとした。

滞在先に帰ってからは怒りと憤りとムカツキでたくさん泣いたし、ホストママは仕事や遊びで忙しい人だったので、寂しい時間も多く感じた。

周りの人にムカついたというよりも、よく調べなかった自分へのムカつきと、自分の英語を学ぶ気合のエネルギーと場が合っていないことに、体の内側から熱い怒りのようなものが出ていた。

でもこのきっかけがあったことで、学校のスタッフに英語で抗議をしに行くために家でぶつぶつ練習してスタッフ部屋に乗り込んだり、

語学学校の中でも英語を学びたくて来ている子と時間を過ごしたり、

インターンが始まるまでの間ボランティアをしてみたり、環境のせいにしないで自分でできることを探すようにした。

20ドルのスーツでホテル勤務

そしてインターン先のホテルへ面接に。

いきなりフロントデスクのマネージャーとの面接だったので、近くのモールで買ったやっすい20ドルくらいのスーツを着て面接を受け、そのスーツのままフロントデスクの勤務が始まった。

ちなみにこのホテルはニューオータニのロサンゼルス支店だったのだけど、日本人のお客さんよりアメリカ人のお客さんが多いホテル。目の前はロサンゼルスの裁判所だし、そういう土地柄そこへ行くためのお客さんも多くいた。

私はこのインターンシップで揉まれまくった。

頭の中がいっぱいで、脳味噌がついていかなかった。脳味噌が破裂する問いよりも。フリーズして動かなかった。

まず初日。電話オペレーターをしましょう、見せるからやってね。とスタッフに教えてもらったのだけど、ホテルへのオペレーターがなんと一人しかいない(汗)

電話が鳴り出たと思ったら次の電話が鳴り、話している途中でその次がまた鳴り、

Thank you for calling New Otani, can you hold? 

Thank you for calling New Otani, can you hold?

と取った瞬間にお待ちくださいと伝えまくり、マルチタスクすぎて訳がわからない電話のとり方だったのだ笑。

しかも大学生のうぶな私は会社の電話なんて取ったことさえない。

それが英語になったとたん、ワケワカメ。

しかも3人くらいのお客さんと同時に会話をしないといけない破天荒な状況。

とにかく教えてくれた担当の人を真似て対応して行った。

移民が多いロサンゼルスは、私がうぶな顔した日本人の若者だからって、全く容赦をしない。

みんな第二言語で英語は当たり前。性別も経験も年齢もバックグラウンドも関係ない。

フロントデスクのスタッフは、メキシコ人、サルバドリア人、アメリカ人、マレーシア人、フィリピン人、韓国人、日本人。

そんな中うぶな私が来たところで、特別待遇なんてない。みんな同じ。

だからこそ、周りのスタッフを見様見真似でメモを取りまくり、電話が来ていない時は他のスタッフの対応を見まくり、ホテルへと家での往復で復習をしまくった。

そしてホテルのオペレーター、予約課、ビジネスセンター(コピーとかパソコンがある部屋)、フロントデスクで経験をさせてもらい、

秋田育ちのウブな私はロサンゼルスのど真ん中のホテルに毎日通い、フロントデスクで働いていたのだ。

アメリカで日本語禁止の呪いを解く

このインターンシップで、私が語学学校で持っていた『断固日本語禁止』の呪いから自分を解くことができた。

留学をすると多くの人が思うと思う。日本人とつるんではいけない。日本語を話してはいけない。英語がうまくならないから。

私もまさにそう思っていたし、それで自分を固めていたように思える。

でも、第二言語がスペイン語の同僚は、彼ら同士スペイン語で話していると思ったら英語に切り替わったり、

スペイン語でおしゃべりしていると思ったらお客さんが来て英語になり、

と思ったらスペイン語を話す南米のお客さんが来たらスペイン語で対応。

両方の言語を同時に操っていて、どちらを使うべきなんて優勢もこだわりもなく、ただ当たり前に使っていた。

これを見て、「あ、そっか。どちらも使えればいいんだ。日本語を減らすことで英語が上手になる訳じゃなくて、英語は英語で磨いていけば良い。自分の中で英語と日本語と切り替えて使えて、どちらも十分に使えるようになれるのが大切で、それが自分のスキルになるんだ」と考えが変わり、目の前が明るくなった。

このインターンシップは帰国前まで続き、勤務先のメキシコ人と恋に落ちたことでさらに英語を頑張った笑。

そして渡米当初アメリカに来ていたことに泣いていた私は、日本へ帰ることに泣きながら飛行機に乗って帰って行った。



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