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市民ランナーが考える『箱根駅伝の功罪』〜コンテンツ力の強さがもたらしたもの

今や、国民的行事となった箱根駅伝。私の子供の頃は、ラジオ放送のみでしたが、80年代後半に、そのコンテンツ性の高さに注目した日本テレビが、生放送を始めて以降、視聴率30%を超えることもある程の『お化け番組』になりました。

私も、その魅力に魅了されている一人で、監督を務めている会社のランニング部のメインイベントとして、箱根駅伝コースを、本家と同じ2日間に渡って走破する行事を毎年開催しています(今年で7回目)。

私は、箱根駅伝に出場した訳でもなく、更には、陸上競技として駅伝に参加したこともない、市民ランナーの一人です(高校時代は、陸上部でしたが、短距離選手でした)。

そのような私に箱根駅伝を語る資格は無いのかもしれませんが、敢えて、市民ランナーの視点から、箱根駅伝の功罪について、自分なりの意見を述べさせて頂きたいと思います。

先ず、箱根駅伝がもたらした良い面について。箱根駅伝が、東京マラソン同様、ランニングの大衆化を推進したきっかけとなりました。実際に、ランナーとして、日常的に走るか走らないかに拘わらず、ランニングを身近な存在にしたイベントであることに間違いありません。

また、日本男子長距離界のレベルアップに貢献したことも確かです。ランナー的に考えると、駅伝で、20kmあまりを走破することは、相当にハードなランニングとなります。レース展開により、ペースを変化させなければいけないことは、日頃、かなり厳しいトレーニングをしないと対応出来ないはずです。

更には、スポーツメーカーや大学関係者にとって、大きな商機となる場となったことが挙げられます。最近のナイキ厚底シューズに代表されるように、特定のアイテムを多くの選手が利用することで、想像以上の波及効果を生み、世の中に浸透していく流れを生み出します。

大学関係者にとっては、箱根駅伝に出場するかどうかで、その年の志願者数に大きな影響を与えると聞きます。少子化の時代において、箱根駅伝への出場有無が大学ビジネスにとっての死活問題につながる様相を呈しています。

次に、箱根駅伝がもたらした負の部分について。その圧倒的なコンテンツ力の影響で、その後の選手生活に大きなインパクトを与える存在になっていることは、長距離選手として飛躍する上で、障害となる場合が多いと感じています。

その代表例が、山登り区間で活躍し、『山の神』と称された3選手(今井選手、柏原選手、神野選手)です。

3人に共通しているのは、『山の神』という偶像と常に同居し、山を颯爽と駆け上がるイメージを常に植え付けながら、現役生活を送らなければいけない環境に置かれて来た点にあります。

選手として成長する過程で、それは、大きな足かせとなっているように思えるのです。

3選手には、是非、その辺りの苦悩を、可能な限り発信してもらい、今後の後輩たちが成長する中で、糧として活用出来るようになることを望みます。

また、箱根駅伝のコンテンツ力の強さは、マスコミが作り出した、ある種の『感動ストーリー』の世界で、選手が、知らない内に踊らされている現実も生み出しました。

箱根駅伝ランナーとして、ある程度活躍出来れば、周りから評価され、いつしか、競技選手として大切な、純粋に勝利を目指し、上昇志向を持ち続ける意志が、弱くなっているように感じます。

先日、現役を引退した大迫傑さんも、「サングラスを掛けて、同じようにゴールするイメージが、自分には無く、そうなりたくないと思った」と語っていましたが、先ほどの山の神の3人同様、周囲が作り出した姿に縛られ、競技選手としてのハングリー精神が、奪われている傾向にあると危惧しています。

以上、箱根駅伝がもたらした功罪について、そのコンテンツ力の強さの観点から、述べさせて頂きました。箱根駅伝が、お正月、家族でゆっくりと観戦出来、見ているだけで、明日からの活力や非日常的な感動を与えてくれる存在であることは、誰しもが認める事実だと思います。

しかし、箱根駅伝後の選手の成長を考えるならば、見る側の私たちが、「駅伝は、駅伝。個人レースとは別の世界」と割り切って考えることが、大切であると思っています。




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