方丈記

方丈記の序文は高校の教科書に出てくるくらい有名だ。

ゆく河のながれは絶えずして、しかもゝとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。

端的な言葉を使って、河というものの性質から無常を導いている。現代語にはない重みがある。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、現世においての仮の宿り、誰がためにか心をなやまし、何によりてか、目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあらそふさま、いはゞ、あさがほの露にことならず。あるいは露おちて、花のこれり。のこるといへども、あさひに枯れぬ。あるいは花しぼみて、露なをきえず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

あまりにも儚い。名文だ。しかし、そのあとの本文がどうなっているか、30歳を過ぎてもまだ知らないままでいる。遅ればせながら、読んでみようではないか。そう思って下のサイトを開いてみた。 

https://mukei-r.net/kobun-houjouki.htm

しかしこれが、さっぱり頭に入ってこない。前半では、大火事や台風、地震や飢饉といった災害についての言葉が続くのだが、人々が苦しんでいる様子に情緒は感じられない。当時の人々にとっては深刻なものであったろうけれど、本文はあまり感情を交えないものとなっているし、地名が多分に含まれているので、共感し難い。言葉を重ねるほどに、わからなくなる。生きていた時代が違うし、住んでいた場所も違うし、仕事も違う。結果、考え方も感じ方も違うのだろう。鴨長明と私の間には、大きな隔たりがある。方丈記が作られたのは1212年だから、当然のことだ。

読むのをやめようかと思っていたところで、ようやく話の流れが変わった。鴨長明の質素な暮らしや風情について描かれている。彼は妻子を持たず、小さな庵でひとり暮らした。華やかさはないが、俗世の色々なことに振り回されずに生きられることに、価値を感じていたようだ。

春は藤波をみる。紫雲のごとくして、西方にゝほふ。夏は郭公(ほとゝぎす)をきく。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を、かなしむほどに聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。

求めていたものに近い。自然に目を向けた言葉。これは800年経っても共感できることだ。彼はやがて、草庵の暮らしが愛しくて仕方がなくなってしまったらしい。そして、その執心が仏の道に反することも理解していた。その迷いに答えを出さないまま本文は終わっていた。

結局の所、序文が一番美しい文章であると感じた。だから、高校の教科書の判断は大正解だ。

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