#猫を棄てる感想文 我が父について語る

 父が6月2日に死んだ。享年83歳だった。3年ほど前に、胃癌、肺癌が見つかりどちらの手術もし、その後はほぼ自宅で普通の生活を送っていた。私が村上さんの当作品を読んだゴールデンウィークには、まさか1ヶ月後に父がこの世に居なくなるなんて思いもしていなかった。

 私は当作品を読んでいる時、村上さん父子のことより、自分と父とのことばかり考え、父との思い出をたどっていた。多分、中高年の読者はみんな私と同じだったに違いないと思う。そして、みんな一様に、この感想文募集の機会に自分の父親について記録でも残しておこうかと思ったのではないか。

 私の場合は、私の結婚が50過ぎと非常に遅かったので、私の大学の下宿時代と父の単身赴任時期以外の45年もの間、父と(そしてまだ健在の母と)一緒に暮らしていた。こんなに長い間同居していると、さぞかし父との思い出も多いことだろうと思われるかもしれない。しかし、今、振り返ってみても、少年期以降の思い出はほとんどないに等しい。男の子は父を永遠にライバル視すると思うが、名古屋大学農学部を卒業し、東京の農薬会社に勤めた父、囲碁2段の腕前の父。私は自分が83歳になるのを待つまでもなく、そんな父には追いつきっこないと鼻っから諦めていた。それが理由なのかどうかは分かないが、大人になってからというもの、私は父とはあまり関わらなくなっていった。仲が悪い訳ではない。無視した訳でもない。避けた訳でもない。ただ目に入らなくなったというところか。休日、夕食時間が重なっても、父とは違って酒、タバコを飲まない私は、ほとんど父の晩酌の相手も勤めなかった。私が酒もタバコも嗜まなかったのは、父を避けたのと同様、酒、タバコも避けてしまった、と言った方が正確かもしれない。いつしか、私の食事時間はあっという間に終わるようになっていった。

 だから、そんな私の父との一番の思い出は、私の中学時代まで遡る。当時、私たち一家は高知に住んでいたのだが、経団連や農協に営業に出るために、社用車に乗っていた父に誘われて、休日、よく山にドライブに行った。野山で野草を観て回るのが目的だった。特に野生ランに惹かれ、愛好家たちのハイキングに参加した。母も弟も誘わず、父が連れて行くのは決まって私だけだった。父は愛好家の中でも草木の名前をよく知っているメンバーで周りから一目置かれていた。また、父がそこで学んだことを手帳に書き留めていた姿勢、行き帰りの運転の巧さやマナーの良さ、とりわけ(営業で利用したことがあるらしい)標識もない本当に細い裏道までよく覚えていることには、子ども心にも脱帽させられた。父は当時、私のヒーローだった。

 父と私は年齢が違っているだけで、誰が見ても瓜二つで、みんなから口々に「そっくり」と言われた。「お母さん似だね」と言われたことは皆無である。しかし、昔の私はそれがとても不満だった。ヒーロー視していてもそこは譲れなかった。だけれども、いつしか父に似ていると言われても、少しも嫌でなくなっていた。今ではむしろ、嬉しいとさえ思うようになっていた。それがなぜなのかは分からない。父が死んだ今、そのことを父に伝えていないまま、父と別れたことが、一番悔やまれている。

 名古屋人の典型のケチの見栄っ張りで、食いしん坊で腹が減ると不機嫌になった父。お袋の愚痴ばかり聞かされ、ますます父の悪いところばかりが目に付いた。父の運転も年を追うごとに荒っぽくなり、私は自分が送ってもらっても、父の運転に文句ばかり言うようになった。少しずつヒーローだった父が父らしさを失ってくるのを見るのが嫌になったからか、父との距離が開いていった。

 そうこうしているうちに、とうとう父は先日死んでしまった。今まで食べて体力を付けて病気に打ち勝ってきた父が、ここひと月食べなくなっていた。

 今回、父の死に際して、父を一番よく知る母に本当に愛されていたことがよく分かった。あんなに愚痴っていて、あの世では父と一緒にはいない、と言っていた母が、意識のなくなった父に「パパは私がいないと何もできないから、あの世でも一緒にいる。」と言っていた。

 さて、私自身はどうなんだろう?愛す、愛さない以前に、もしかすると、私は父のことを、父の魅力をちっとも分かっていなかったのかも知れない。そんな疑念が今湧いている。

 父はここ数年は私が実家に顔を出すのを心待ちにしていたそうだ。実家近くにマンションを借りた私が、週に一度も顔を見せないと寂しがっていたとお袋から聞いた。私と父の関係は悪くはなかったのだ。でも良かった、とは言えないのも事実である。父とのことは分からないままである。

 筆者村上さんも父に対して私と同じように、理解できないままお父様とお別れをしたと感じ、今までお父様についてなかなか筆が取れなかったのではないか。