「人が法を守る」とは ー火災事件と誹謗中傷問題ー

わりと色々な映画やアニメを見てきたが、自分に最も強い印象を与えた作品は何かと聴かれた時、真っ先に思い浮かぶのはPSYCO-PASSである。
重厚なストーリー転回と哲学的な問いの数々が絶妙な塩梅で織り成される本作にどっぷり使った自分はなにかと影響を与えられたものである。
作中で引用されたマックス・ウェーバーやミシェル・フーコーを読み漁り、作品の世界観に影響を与えていそうな映画もずいぶん視聴した。
そんな中でも一際印象に残っているのが第一期のヒロインであり、二期の主人公、常守朱の一言である。
「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです。」

人が法を守ると言うこの言葉は構造主義的な観点で見るとあまり適切でないような気がする。
法とは即ち一斉監視システムの装置であり、これを遵守することは装置が与える「真理」を享受する行為である。
「真理」が需要されることで国家は国民の安全を保障するという名目のもと、彼らを容易くコントロールする。
あまりにも乱暴な言い方になるが、これがいわゆる構造主義的なアプローチになるのだと思う。

幾分こういった「ひねくれた」主張を持つ自分としては、PSYCO_PASSの見事なストーリーラインを称賛しながらも、この一言が喉の奥の方に引っ掛かるような違和感を覚えていた。
しかし、ここ数日の報道を見ているとあの言葉がいかに重要だったか納得いく気もする。

某アニメーション会社で火災事件を起こした犯人が治療の結果取り調べを受けられるまでに回復した。
これによって彼の犯行動機がいかなるものであったか等が浮き彫りにされていくのであろう。
こういった犯罪の結末としてよく取り上げられるのが責任能力の有無という話である。
自分自身、勉強不足なために、この法律上の「責任能力」がいったい何を指すのか見当がつかないのだが、
そんな私は人を殺めた人間が「精神の錯乱状態」や「未成年」といった理由で罪を免れる道理が理解できないのである。
もし今回の事件においても責任能力の欠如という謳い文句のもと正常な刑罰が執行されないのであれば(裁判官や弁護士は正常に法のもと裁いたと言うであろうが)これ程被害者や遺族を貶める判決はないと思う。

彼がこう思って今回の犯行に及んだのかは定かではない。
しかしあまりにも多くの人間が「法が人を守る」と信じているように思える。
そう痛感させたのもまた昨今報道で取り上げられている事件である。
とある恋愛リアリティーショーに出演していた女性が亡くなられた。
原因は彼女が出演していた番組に関する誹謗中傷にあったとされている。

心理学に精通しているわけではないので、話半分に読んでほしいのだが、
彼女に誹謗中傷を送りつけていた人々は今でもなお罪の意識などないであろうし、この先もずっと多くの人を傷つけるのであろう。
彼、彼女らは本気で「法が人を守る」と信じており、この人とは常に自分達自身を表すのである。
自分達は守られている。
自分達は発言する権利を保障されている。
自分達は誰かに自身を特定されることなどない。
自分達を侵害することを法は許さない。
彼、彼女らにとっての法とは主体である。
もはや人を裁くための尺度ではない。
「真理」を提供する装置でもない。
法は今、社会を維持するためのバイブルから、個人を守る保護者に成り下がった。
それも極めて過保護な保護者である。

常守朱監視官の「人が法を守る」とは至極単純な倫理的課題であったのだと気づく。

別に今回のブログで社会が変わるとか、そういう大それた事は思っていない。
法学者でもない自分が法について批判したいわけでもない。
ただ「法が人を守る」という神話が蔓延る社会に嫌悪感を抱いているのである。
構造主義やポスト構造主義をかじった自分としては法が作る社会は批判したいところなのだが、
人を傷つける事を法のもとに正当化する現状が存在する以上、法を必要としない倫理的な社会は完成を見ないのだろう。
せめて自分だけは「いつでも他者を傷つける可能性がある」ことを心にとどめておきたいものである。