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第8話 ツバメの窓

 ちょっとしたことだけど、どうしても気になることがあって、調べものをしに行っただけの街だったから、あんまり期待するところも観光する気もなかったんだよね。二泊三日で図書館に缶詰めになりに行ったんだもん、楽しくなさそうでしょ。
 小さな街だった。景観保護区になってる旧市街地があって――それだけ。新市街地もないのに旧市街地だけ。数室しかないホテルが用意してくれたのは、崖に面した見晴らしのいい窓がある部屋だった。窓枠から身を乗り出すと、すぐ下は大きな石がごつごつ転がった古代人の墓地で、そのちょっと向こうは崩れかけた中世人の墓地で、さらに向こうには現代人の墓地があって、そこから先は見渡す限りの農地だった。よく耕されて、遠くまで平べったくて、彼方に光って見えたのは、もしかすると川かも知れなかった。
 どことなく大地がふわっとして見えて、農地としての年季が入ってるんだなってことが分かった。そりゃ欲しくなっちゃうよね、よその支配者さんも。豊かな収穫をもたらす土地と労働力があるのが、ぐるっと見回しただけで伝わってくるんだもん。それに、急な坂道の不便を我慢してでも、住人たちが頑なに山頂から街を広げなかったのも理解できた。崖を城壁替わりにでもしないと、街を守れないんだもん。私の部屋の窓から、大事な麦が略奪されるのを見たかつての住人は、一人や二人じゃなかったんじゃないかな。
 崖のほとりにあるホテルから、街の中心にある図書館を行き来しようとすると、ちょっとした山登りだった。時間が限られてるから、旅疲れだなんて言ってられないし、朝はちゃんと7時に起きてね。たくさんの人に踏まれて続けて、艶々になった黄色っぽい石畳で滑りながらの山登りよ。途中でコーヒーといっしょに、甘ったるいカスタードクリームが詰め込まれたパンを食べて、朝ごはんにした。調べ物にも山登りにも、エネルギーが必要だもんね。
 開館と同時に入ってきた外国人に、図書館の人はちょっと物珍しげな様子だった。田舎らしいノンビリした街だからか、それともお役所仕事だからか、複写のお願いがちっとも通らなくて、仕方ないから机を借りて延々と手書きのメモを作る羽目になっちゃってね、参っちゃったよね。気が付いたら夕方だった。目がしょぼしょぼして、ずっと背中が丸まってたからか、なんだか息苦しかった。
 それで外の空気を吸いたいなって思って、どうせ利用者なんて私しかいなかったし、資料も荷物も放ったらかしにして、お財布だけ握って窓の方に行ってみたの。大きな窓だった。景観保護区だから網戸が付けられないっていうのに、虫が入ろうがお構いなしに開け放たれててたっけ。風はほとんどなかったけど、窓枠から身を乗り出したら髪の毛が舞い上がった。風が吹いているんじゃなくて、空気が波打つようにしてゆっくり動いてる感じがあった。
 山頂の土地は狭くて、そこに都市機能がパズルみたいに嵌め込まれた街だった。建物と坂道の立体迷路のなかにいたようなものだから、とくに眺めには期待してなくて、ただ薄暗い閲覧室よりも広い空間が恋しくなって、窓に切り取られた空の色が滑らかだなって思って、首を突き出してみただけ。でもね、驚いちゃった。図書館のなかは化石みたいに静かだったのに、窓枠の向こうはうるさいくらいに音に満ちてたんだもん。立ちすくじゃった。小鳥がね、高い声で鳴き交わしてる音だって気が付いたのは、淡い金色の斜陽に目が慣れてからだった。桃の果肉みたいな色の空いっぱいに、小さな黒いシルエットがひゅんひゅん旋回してた。すごい数だった。飛び方でツバメだって気付いたんだけど、日本のツバメの五万倍くらい大きな声で、けたたましく鳴くもんだから、自分でもちょっと疑わしかったな。でも、あの飛び方はツバメだったと思う。私、好きなんだよね。弧を描くみたいなツバメの飛び方が。
 閉館時間が近いよって、後ろから声をかけてもらえなかったら、そのままずっと見惚れていられたかも知れなかったけど、私はマジメちゃんだから、お礼を言って席に戻って、申し訳なさそうな司書さんに追い出されたときには、すっかり陽が落ちたあとだった。あんなに飛んでいたツバメも、とっくにどこかへ帰った後だった。
 空と影は真っ暗だったけれど、石畳がオレンジ色の街灯を反射するから、光の届くところに限っては、穏やかに明るかった。山のシルエットに沿ってゆったり婉曲するささやかな大通りには、そぞろ歩きする人がする立ち話の声があふれてた。風が通からか、それとも標高があるからか、季節のわりには気温が低くて、軽いウィンドブレーカーを羽織ったくらいじゃ身震いが出た。
 お腹がぺこぺこだったから、適当なレストランに入ったんだけど、手書きのメニュー表がすごい悪筆で困っちゃったんだっけ。とりあえず炭酸水だけ注文してやっと呼び止めたウェイターさんに相談しなきゃ、なにが食べられるのかも分からなかった。建物はきれいにリフォームした古民家だったと思う。地下貯蔵庫をレストランに改装したんじゃないかな。漆喰の塗られてない石壁が、そのまま内装に使ってあるのがオシャレだった。
 でこぼこした壁石を見てるとね、もしかしたらこの建物、外壁の方にもこんな隙間が無数にあるんじゃないかな。その隙間に、夕方に見たツバメたちが、今頃はぐっすり寝てるんじゃないかなって、そう思えてきてね。なんだか友だちの家にいるみたいな気分にだった。次の日のお昼とその晩と、このレストランには合計3回もお世話になっちゃった。なにを食べたのかはよく分からなかったけど、とにかく美味しかったし。
 結局、調べものは空振りだった。はっきり言って、あの街では無駄足を踏んだわけなんだけど、でも望外に得たものは大きかったかな。

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