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ようかいあしたのしたく


私の家の前は、緑色濃い桜並木が続いている。
まるで緑のトンネルに閉じ込められて暮らしているかのようだ。
息をするたびに、緑色の空気が心を満たし、雨上がりの日には桜餅のにおいがかすかに感じられる。
躁病の長女は、毎年、季節の変わり目や、五月の連休のころに、気分の波が激しくなる。

さて、今年はどうか?というと、長女の具合はすこぶる良い。
喉が痛いだとか、声が嗄れているだとか、そういうことはあるのだが、気分良く過ごしている。
なぜそうわかるかと言えば、声のトーンとスピード。
穏やかなとげとげしさのない柔らかい声で、ゆっくり話をする。
歩き方も、落ち着いていて、攻撃性がない。

とても、付き合いやすい。
母としては、気を使うことなく、のんびり過ごせて、少し気を抜くことができる。
しかし、このような生活が永遠に続くとは限らない。
ある日突然に、躁はやってくる。

でも、ここしばらくは、のんびり過ごさせてもらおう。
これは、母の日のプレゼントだと思おう。
何とも、心地よい五月の午後。

でもこれは、ここに至るまでの、どたんばたん、行き止まり、崖っぷちぎりぎり、墜落、断崖絶壁にぶち当たりながらの紆余曲折があったからこそ、感じられる心地よさだろう。
最初っから、穏やかな日々だけが続いていたのなら、このような日は当たり前のことだろうから。
そう思うと、もっと緑色の空気をたくさん吸い込んで、今のうちにエネルギーを蓄えておこうという気持ちになる。

しかし、あいかわらず「ようかいあしたのしたく」だけは出現している。
これは全く、実害のない妖怪なので、放ってある。
毎朝、毎晩、長女はまず、「今」のことではなく、「明日」の支度から始める。
たとえば朝起きて、まずすることは、「今日出かけるための支度」ではなくて、「明日着る服、明日の持ち物」から支度する。
だから名付けて、「ようかいあしたのしたく」。
これはもう、何十年も続いている。

妹たちが小さくて、一緒に住んでいたときに出現していたのが、
「ようかい、まよなかのさんた」である。
これは、三人の妹たちが、夜、お布団に入ったころ出現する。
長女が自分で集めたシールや、キャラクターグッズなどを、妹たちの枕元に置いて歩くというものである。
それ程欲しいものをもらったというわけではなくても、妹たちは一応、翌朝ありがとうと言っていた。
たまたま、目をパッチリ開けた妹と目が合ったこともしばしば。

しかし「さんた」は、もう一つ厄介なことをしてくれていたのだ。
それは、「CD片付け」である。
妹たちは、それぞれ、自分のCDプレイヤーを持ち、それぞれ、好きな音楽を聴いていた。
「CD片付け」は、妹たちにプレゼントを届けるついでに、CDをいれたままのプレイヤーから、CDを抜いてケースに片付けて歩くという作業だ。

長女は、きっちりお片付け命の人だから、音楽を聴いた後、CDをプレイヤーに入れっぱなしにして、ケースに戻さないというのが、どうしても許せなかったのだろう。
ところが長女は字が読めないから、どのケースにどのCDをしまっていいかわからなくて、CDをきちんと元のケースに収めることができず、毎朝、ケースとCDの内容が一致しないことが続く。
昨日の続きの曲を聞きたい妹たちは、CDケースを片っ端からひっくり返して、聴きたい曲を探していた。
いまは、妹たちも独立して家にはいなくなったし、もうCDも使っていない。

さあ、今日は何の妖怪がでるかな。



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